適たま得て幾し

風呂上がりに一杯やりながら茶道雑誌を読んでいたら、作家の玄侑宗久氏が、私が常日頃思っている通りの事を、僧侶でもある立場から具体例を挙げて書いていて、大変興味深く読んだ。

いわく、昨今流行りの健康食かぶれや、サプリメントを月に何万円も飲むなどという事は長寿を「欲望」の対象にしてしまっている愚かな行為である。長寿を否定はしないが、それを「目指す」事はあまりにも下品だし、賢しら(さかしらと読む、誉め言葉ではない)である、と。

まさに我が意を得たり、である。

良くご長寿番組などでお年寄りが「長生きの秘訣は?」と聞かれ、「特に何にもしてません」と答えるとインタビュアーは期待外れの様なリアクションをするが、長寿なんて物はたまたまそうなったから目出度いのであって、「必死で長生きする」などという事は文字に書いて見たって矛盾しているではないか。
テレビをつければ朝から晩まで健康、健康の一つ覚え。そんなに長生きしたいか、と不思議に思うがその癖、現代はこんなに生き難いと、自分たちの時代をさも暗黒の様に言う。ならば早く死にたくなるのが本当じゃないか?

以前知り合いに「あなたはいつも顔色が悪い」と言われ、「今スーパーで売ってる魚なんかは悪い物がいっぱい入ってるから(今回の原発事故とは関係ない何年も前の話)、そういう物を食べるんだったらこれを飲んだ方が良い」と言われ、粉を溶かした飲み物でサプリメントを何粒も飲まされた挙げ句、その夜予約していたフレンチのフルコースが喉を通らず大損害を被った事がある。食い物の恨みは怖い、じゃないがサプリメントというと、その一件を思い出し、いまだに腹が立つ。私の大事な一食を奪った天敵。

旬の物を食べてりゃサプリなんぞ不要、と私は確信している。

ジムについても、誰だったか思い出せないがテレビか何かで「今はわざわざお金を払って疲れに行っている」と皮肉ってた人がいた。まったくその通りである。

私とて具合が悪くなれば病院にも行くし、薬も飲む。しかしそれは最低限の急場凌ぎである。

この度の危機においても、科学的、理性的な判断と全くかけ離れた放射線ヒステリーに陥っている人間の何と多い事か。普段あれだけ氏素性の分からぬ食い物を平気で食べておきながら、こんな時だけ大騒ぎする愚昧さに呆れ反る他はない。
農海産物の問題もそうだが、「砂の器」じゃあるまいし、福島県から来たと言うだけで介護施設が入所拒否した例なぞは無知蒙昧そのものである。どこまで自分だけが可愛いのか。
一日でも長く生きたい、という人間は結句自分に達成感、あるいはあらゆる事に対して感謝がないのであって、人にも自分にも尽くさなかった、あるいは尽くしていないから、満足感が得られないのである。
そういう類の人間は三百歳まで生きても同じ事である。

私が言っても「何ほざいてんだか」と思われるだろうから、玄侑氏の文章から引用する。
荘子曰く「人は常に自然に因りて、生を益(ま)さざるべし」
「つまり自然に任せるべきであって、ことさらに長生きしようとか体を強壮にしようなどと思うべきではない」
「あくまでも受け身、それも強靭なまでの受け身の姿勢こそ望ましい」

策を弄し、自らが絵を描いたつもりでも、そんな物は天命の前には虚しく浅はかな凡慮である。

「運否天賦」という事を、我にかえって反芻する時は今しか無い。

呉服・着物・和装 高知県高知市 (c) ごふく美馬.