私の銀座2

東京六日目の夜は演舞場観劇後、いきつけの一軒「秋田の郷土料理休み屋」へ。
ここの店とは実に不思議な縁である。
そもそも私が夜食好きで、若い時は呑んだ後には必ずラーメンを食べなきゃ聞かなかったところから、当時いきつけのバーのマスターが銀座に「あさりラーメン」なる物を食わせる店があると教えてくれたのが始まり。

ところがマスターも噂で聞いただけで実際行った事はなく、とりあえず電話してみようという事になった。

「はいもしもし」ちょっと怖そうなおばちゃんの声。「あのー、そちらであさりラーメンをやってると聞いたんですが」と言い終わるか終わらぬ内「ラーメンだけはやってません!」ガチャン。ツーツーツー。
いやはや恐ろしい。かなり手強い相手である。
普通ならこれで縁無きものと諦めて終わるのだが、何せ「あさりラーメン」である。私の好きなラーメンと、私の好きなアサリとが、どういう具合に絡んでいるのか、意地でも食ってみたい。第一美味いという噂だし。

後日、気を取り直して突撃を試みた。
細い路地にある店のドアの前で暫く躊躇し「ええ、ままよ」と乗り込んだ。「一人ですけどいいですか?」「はいどうぞ」。
はいどうぞ、と言いながらいかにも怪しむ目付き。「誰だこいつ?」ってなもんだろう。
ビールを注文してお通しを待つ間、「今日はあさりラーメン出来るんですか?」と問うと女主人の目がキッと吊り上がり「ラーメンだけはやってないんですよ!うちはお酒を飲んでいただいて色々召し上がっていただいた方に最後にご注文があればお出しするんですから!」とピシャリ。
いささか気圧されながら「いえいえもちろん色々食べさせてもらいます」と言ってあれこれ注文して食べて見るとこれがまあ、びっくり仰天である。
野菜であれ魚であれ頼むもの頼むものみんな上等の食材であり、その上味付けが実に素晴らしいのだ。このオバハンただ者じゃないと確信。
カウンター八席のみの店内はお世辞にも綺麗とは言えず、こんな店でこんな美味い物が出るとは全く予想だにしなかった。その上料理法が独創的で他所で食べた事の無い物が出る。さすが銀座と言うべきか。さすがこの店に辿り着く私と言うべきか。

何と初回はあんまり色々食べたので満腹になり本命に行き着かず、帰りに「あら、ラーメン召し上がるんじゃなかったの?」と向こうに言われた。この時点でラーメン注文資格を得た。

それから毎月通い詰め、やっと常連の仲間入りを果たしたある日、ママが「美馬さんとこって高知の旅館だわよね」と聞く。「そうだよ」「高知の何てとこ?」「窪川」「もしかして隣で三木さんてレストランやってない?」「えっ?何で知ってんの?」「私美馬さんとこ泊まったことあるわ」

何とママのご主人は昔ホテルオークラに勤務していて、当時やはりオークラでムッシュ小野の下でコック修行をしていた私の義理の伯父と同僚であり、その伯父がウェイトレスをしていた伯母と恋愛結婚をし、伯母の生まれ故郷へ帰る形で引き揚げて来た窪川へ、夫婦で遊びに来た事があったのである。

四十年前の話。
何たる僥倖!

何万軒もの店が犇めく銀座で、あさりラーメンの引き寄せる縁によって、自分のうちに大昔泊まった事のある人の経営する店に行き当たるとは!

これぞ超嗅覚。歌舞伎の連理引きの如く、己で縁を手繰り寄せるのには我ながら恐れ入る。

ここの一番の珍味はやはり秋田の山菜である。


まずは「あいこ」のおひたし。コリシャキの食感と、上等の鰹節が一品目からこの店のグレードを物語る。


続いて「ほんな」の酢味噌和え。この酢味噌が絶品。名ばかりで内容の伴わない料亭なんぞ顔負けの、実にバランスの取れた味である。何せこのママ、作り置きという事を一切しない。だからこの酢味噌も柚子の香りがきりっと立っている。

そして三品目は「しどけ」。まず名前にやられる。河東節「花の栞」に「しどけないのに気は回り向く」という一節がある。
学名は「モミジグサ」と言い葉っぱの形が紅葉の様だという。
この「しどけ」と「ほんな」は茎が空洞になっていて、まるで中国の空心菜の様である。
何とも滋味のある物で、佃煮にしてもさぞ美味かろうと思う。


透明なのは鮭の鼻の軟骨「ひず」。大根おろしと柔らかな酸味、微かに香る鮭の風味が渾然一体。

はっきり言って小汚い店の短冊には「さくらます」「のどぐろ」といった高級魚から、高知でしか見ない「めうが寿司」、私の大好きな「穴子ごぼう玉子とじ」はたまた「韓国風炙り肉」や「すっぽん雑炊」まで、何とも食欲をそそるメニューが名人大集合の寄席の如く並んでいる。


中でも私が必ず注文するのが「鯨ベーコン」。私はこの店で初めて本物の鯨ベーコンというものを知った。
並みの包丁や腕では切れないほど薄く切られたペラペラの物体から、これほどの旨味が滲み出るのは希有である。たらっと醤油を滴らし、辛子をつけていただく。
一昨年暮れにママに頼んでこの鯨ベーコンを築地の魚屋から送ってもらった。さすがにほんの少しで小一万した。


そして〆は藤村ママ入魂の逸品「いわしつみれ椀」。
白ネギで臭みを消した鰯の出汁が疲れた胃腸に沁みわたる。

気がつけば何年も前からあさりラーメンは食べていない。他の物があまりにも美味いのでその必要がなかったのである。

聞けばあさりラーメンは大分前に裏メニューからも消えたそうである。

あさりラーメンで始まった縁も、今はそれ抜きで続いている。

銀座の裏の裏の夜。興味のある者は勇気を振り絞って門を叩いてみるが良い。ただし一回は怒られる覚悟で。

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