偏愛的女優論 第一章


私の女優開眼は高峰三枝子であった。

小学一年の時に見た「西遊記」。
これが全ての始まりである。

「お釈迦様」というものを、この人ほどリアルに、さもこうであったろうと思わせる演技で現した役者を私は知らない。

同級生がマチャアキの孫悟空や、岸部四郎の沙悟浄や、西田敏行の猪八戒に現を抜かしてる間に、私は一人高峰三枝子中毒に罹患していたのである。

私は子供心に、世の中には自分の力ではどうにもならない大きな力というものがあって、やりたい放題やったつもりでもそんな事は掌の内で泳がされている様なもの、という事を教えられた。

そんな説得力を持った高峰三枝子と言うひと。
その人の魂はどの様であったか。

筑前琵琶宗家の娘として生まれ、若くして大スターとなり、映画の主題歌で次々ヒットを飛ばして国民的女優となりながら身内のスキャンダルに苛まれ、声を失い、激しい浮き沈みの中でも決して「純」を失わなかったひと。
この「名大根役者」が、一世一代で演じた汚れ役。「犬神家の一族」の松子。これは私が死ぬ前に観たい三本に選ぶ名演技である。

吊りくり上がったこめかみ、後年フルムーンで披露する事になる堂々とした鳩胸、そしてクライマックス、我が子佐清と再開する場面での情味溢れるクドキは、日本映画史上特筆すべき傑作である。

まこと市川崑という人は恐ろしい。
当時こんなキャスティングをするという事は想像の外である。

「黒い十人の女」を引き合いに出す間でもなく、市川崑という人は誰よりも「女優」を愛した監督であろう。

佐清にすがりついて掻き口説く松子の姿は、そのまま我が子の不祥事で泣かされた高峰の姿に重なる。

無論、芸術史上主義に立てば、女優の実人生なんて物は取るに足らない物で、そんな事を言うのは安っぽいセンチメンタリズムという事になる。
ところが、そうはどっこい問屋が卸さない。やはり、深く観ればそういう事になる。

私が後年、山田五十鈴、杉村春子という二大女優の膝元へ辿り着いた時、高峰三枝子の価値は落ちるどころか、もう誰も追い付く事の出来ない高みに登った。

しかるに、実演(こんな言葉分かる人は日本人の中でも一%もいぬだろう)が無かった故に、とうとう実物にお目に掛かる事は無かった。

高峰さんが病に倒れた時、今までの不孝を悔い、一気に書き上げた手紙を送った。

没後、御子息と令妹から礼状が届いた。

「美馬さんの様なファンを持てて、高峰は幸せ者でございました。」

この文をもらった時くらい、自分ののろまさ、鈍くささを恥じた事はない。

逢っておけばよかった。田園調布の自宅、軽井沢の別荘と、さぞかし歓待され、湖畔の宿は愚か、懐かしのブルース、情熱のルムバ 、懐かしのボレロ、牧場の花嫁さん、白薔薇の唄と披露してご本尊公認歌手となったであろう。

NHKビックショーの折、自分の出世の糸口となった作曲家万城目正について、涙を浮かべて語る高峰三枝子の姿には尊い物がある。
拝眉は得なかったが、私は高峰三枝子の歌唱法を体得した唯一の後継者として、秘かに高知の片隅で生きている。
我こそは、という人間がいたら、何時なりとも勝負は受けて立つ。
島田虎之助の心境で。


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