社長

社長が死んだ。

「談志が死んだ」どころの騒ぎではない。

私にとって人生最大の、否、唯一絶対の師匠であった三條山脇初子女史が、亡くなった。行年九十八歳。
「崩御」は畏れありと言えども、私にはせめて「薨去」とは言わせてもらいたい大事件である。
社長は私と同じ窪川の出身で、戦後の焼け跡から一代で「三條」の名を業界に轟かせた立志伝中の人であり、高知を代表する女傑、まさに「はちきん」のお手本の様な人である。

思えば十六の春、祖母に連れられて初めて三條の暖簾をくぐった日、私の運命は決まった。
初めは得意先の「お坊ちゃん」として可愛がられ、後に店に入ってからは「あんたを使える者は天下にあたししかおりません!」と喝破されて、言われた方も「そうやろねえ」と思ったのだから、実に前世からの因縁としか思えぬ糸である。

社長と過ごした三年半(遊びに行っていた時代を含めると九年)は、私にとって二度と得る事の出来ない珠玉の時間であった。
あの日々が無かったら、私は生涯「穀潰し」の、始末に終えぬ人間になっていただろう。
故に「師匠」であり、「恩人」であり、立ちはだかる「壁」でもある。
しかもその修行の日々は、辛酸をなめ尽くす一方の、厳しく苛酷なものではなかった。
毎日毎日が刺激的で、笑いあり涙あり、チャンチャンバラバラの喧嘩もあり、兎に角面白い掛け合いの、丁々発止の連続ドラマであったのだ。

現代の人間関係を見ていて一番つまらないのは、この「丁々発止」の無い事である。
話を聞いていると愚痴ばっかりで、曲者の経営者や上司と本気で渡り合い、自分を鍛えてもらう、という気概がまるでない。
いささか傲慢な言い方になるが、社長と私の様な「丁々発止」をやれるもんならやってみろ!と思う。
しんどいけれど、人間と人間が斬り結べば、必ず得るものが有る筈である。
逆に言うと、そうして初めて「綺麗ごと」の先にある、人間の逞しくもまた愛すべき姿が見えて来る。

とは言うものの、うちの社長(辞めて十六年経っても私には、「うちの」である)は経営者としても人間としても桁外れに特殊であって、並の者にはその魅力は解し得まい。

そういう人の謦咳に接し、「人格者」などとは程遠い「人間丸出し」の、自我の塊の様な人物に、反発しながらも強く惹かれ、師事出来た事は僥幸と言う他はない。

ウマが合う、とはあの事だろう。似た者同士と言うべきか。だからこそ時に激しくぶつかり、八十過ぎの媼をして、反物を掛軸目掛けて投げつける、などという挙に出さしめもした。

独立してからも、常に社長の三條イズムを胸に、少しでも追い付きたい、本家の御客様から「やっぱり三條さんから言うと品物が落ちますね」とだけは言われたくない、その一心で突っ走って来たこの年月であった。

最後は半ば喧嘩分かれの様な形であったが、今から五年ほど前、社長にバッタリ出っ食わした。
裏千家の全国大会の日、三翠園のロビーを歩いていると、すぐ横のソファーにようようの体で腰を掛けた社長の姿が飛び込んで来た。随分年取ったなあ、と思ったが、その分往年の、近寄り難いオーラ、鷹の如き眼光も和らぎ、考えて見れば九十過ぎだから当たり前だが、「お婆ちゃん」になっていた。
出会い頭で私も驚き、一瞬たじろいだが、この機会を逃したら一生後悔すると考え、意を決して「社長!」と声を掛けた。
退社以来、言葉を交わすのは初めてである。
初めは私が誰か分からぬ様子で、随分丁寧に御辞儀をされたが、付き添いの姪御さんが「社長、美馬さんよ」と言うと、じーっと私の顔を見て「ありゃあ、美馬くんかね」と言った。
そして羽織袴の私を上から下までしげしげ眺め(この、上から下まで見回すのが社長の得意技の一つであった)、「まあ、魂げた。あんたはまあ、たまるか立派なお茶の先生じゃねえ」と言う。
「何ちゃあじゃない、今日はただの手伝いよ」と答えると今度はすかさず「どうぞね商売は?」と、今は商売敵となった私に鋭いツッコミで急所を突いてくる。
流石に「お陰様でこじゃんと忙しい」とは言えないので「んー、まあぼつぼつよ」と答えた。
すると社長はどこか安堵した様な、親近感を持った言い方で「そうじゃろ?今はどこもボツボツじゃもねえ」と言った。

それからしばらく、私はソファーの前にしゃがんで社長の手を握り、迎えの車を待った。
私が社長の結んでいた紫地の笹の染帯を指して「社長ええ帯しちゅうねえ、一ノ橋やねえ」と言うと、嬉しそうに「ええろがね」と言って深く沈み込んだ体を起こし「後ろを見て」と立ち上がろうとする。
私は「立たんでえいえい、見える見える」と言いつつグッと後ろへ回り、肥ったせいで帯が回らず、お太鼓の柄が山の中へ半分方入り込んでいるのを見ながら「えいえい、後ろもえい。このグリーンが何と効いちゅう」と言って、座るよう促した。

思えばあれが最後の別れであったのだ。
手違いで遅れていた迎えがやっと到着し、車まで送ると社長は「ありがとう、ありがとう。まあいっぺん遊びに来なさいや」と大層温和な顔で言った。
その瞬間、袂を分かった幾星霜のわだかまりが、一挙に氷解した様な錯覚に捕らわれ「うん」と返事をしようとしたその瞬間(とき)、社長は呟いた。

「まあ来れんろうけんど」

このどんでん返し。
これが社長である。いや、これじゃなかったら社長ではない。
意味深であり、融和の後に「ぐっすり」打ち込んで来る必殺の五寸釘である。
久しぶりに電気が走り、首筋に冷たいものが走った。

それから五年、とうとう社長は逝った。しかも、私が独立の旗揚げをした創業記念日であり、さらに私が本厄に突入する節分の日に。
偶然にしては出来過ぎている。
私は社長が、私の厄を祓ってくれ、逝ってしまった様な気がしてならない。

社長の忌明けを待って、古今無比の「三條物語」を解禁しようと思う。
二十年近く前、毎日何も起こらない日は無かったほどの珍談奇談の数々を、衰えた記憶力に鞭打って、記して行きたいと思う。

それが私が社長に出来る、たった一つの供養であり、魂しずめである。




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