春やよい

慌ただしい月末を終え、二時間睡眠で始発列車に乗って京都へ。
三月は問屋によって秋物の第一回受註だったり夏物の発表だったりで、商品を見る量が半端ではない。
朝から七軒も回れば晩にはもうクタクタである。私は基本的にそこの問屋にある商品は隅から隅まで全て見ないと気が済まない性質であり、注文の品だけサッと見る、という事をしないので、時間もかかるし気力体力ともに消耗する。しかしこれが私の仕事であり「仕入れて売る」という基本姿勢が、自分を追い込み退路を断つただ一つの自己管理である。いささか自分を追い込み過ぎではあるが。

夜は問屋さんの招待で「天ぷら松」に三度目の訪問。
蕗の風味で食べさせる茶碗蒸し、平貝の海苔巻きなどの先付けの後、河井寛次郎作の皿に盛られた前菜が出される。


トウモロコシ粉の薄皮焼きに平目の肝、車海老にこごみが添えられる。海老の味噌とかすかに残る殻(足の根っこ?)の食感がたまらない。


三品目が椿の蒔絵が目にもご馳走の椀物。ここの十八番だが、蕪などの野菜を昆布だしだけで炊いた和製ポタージュである。バターもミルクも一切入ってないのに、驚くほどのクリーミーさである。


続いて造り三趣。蛸のレア加減がたまらぬ食感であり、紅白重ねがけの酢味噌が絡んで口中は「ハッハ蛸めが吸い付く吸い付く〜」となる。
ふぐの白子は塩と山葵でいただく。


五品目は蕪の蟹あんかけ。器は魯山人の絵志野。




六品目があわびと穴子の蒸し寿司。美味い食材の取り合わせだが、葉っぱ好きの私には木の芽が一番のご馳走である。


ここで板前さんが「次はこれ行きます」と活きのオコゼを披露。


七品目はこのオコゼと粟麩を白味噌で小鍋立てに。しかしあまりに立派な魚体を見せられた後では、これはちと物足りない。あれだけ立派なオコゼなら薄造り、汁椀、唐揚げも食べたくなる。一口だけ出される皮の唐揚げが余計にオコゼを恋しくさせる。

次の天ぷらの後、〆の一品となる。これが絶品。


フグのアラを炊いた出汁で食わせるうどんである。スッポンだしの「丸うどん」は京都では珍しくないが「ふぐうどん」は私も初めてである。
他に無い上品かつ濃厚なつゆは、それまでに出された料理を軽々と凌駕し、これを味わう為の今宵の献立であったるか、と思わせるインパクトであった。


最後にみたらし団子のデザートが供される。この甘味の時必ず添えられる赤いハーブティー。これが私には疑問である。日本茶には無い「酸っぱ渋さ」が、前の料理とつながらぬ唐突さであり、百年の恋も一ぺんに冷める艶消しのお邪魔虫である。
「無くもがな」という事は、何処にでも、誰にでも有り得る事であり、要注意なのである。

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