香華


ついに、大輪の花が、音も無く、散った。七月九日。ナク日。
我が青春の恋人、永遠のミューズ、山田五十鈴先生が旅立った。

小学生の時「必殺」を見て以来その色香に迷い、中学三年の時には便箋十三枚に及ぶファンレターを送ってマネージャーから返事をもらい、高一でついに東京宝塚劇場の楽屋を訪れて本人に謁見するという決定的な「見染め」を経て、私の青春は凡そ世人の理解し難い「悪所通い」の日々となるのである。籠釣瓶じゃないが「宿に帰るがいやになった」とはこの事である。

我が父いわく「まず初めに山田五十鈴病を発症、やがて合併症である杉村春子病を併発」し、二人の大女優に全てを捧げる「年増狂い」の子を見る親の心境は、今現在、子を持つ身となった私にとって理解出来ぬどころか、大いに同情するところである。
「お父さんお母さん、大変やねえ。けど、この人もう普通には戻れんき」
と声を掛けて上げたい、それが本当のところである。

中学二年くらいまではクラスでも上位だった私の成績も、数学が混み入って来た(未だに因数分解と聞いただけで仇敵に遭った様な気がするのである)頃から低迷し始め、さらに高校へ進んで山田病が重くなると、学業は愈々つまらなくなった。期末テストの時など「これ以上考えても分からない」と思ったらさっさとテスト用紙を裏向けにし、棟方志功の如き集中力と近視眼で、山田先生の似顔絵を描いて提出したものである。その時点ですでに、私にとっての山田五十鈴は、十大弟子の誰でもなく、釈迦そのものであった。

そんな落ちこぼれの落書きをも切り捨てぬ校風が、土佐高と言う学校にはあった。表は真っ赤っかの赤点にもかかわらず、裏の似顔絵に五重丸をつけ、更に百点をくれた教師がいた。
このユーモア、余裕、真剣さを見抜く眼。こういう「人間見」の教育者がいたからこそ、私の様な規格外のあぶれ者が、リタイアせずにどうにかこうにか卒業出来たのである。

また同級生の中にも「山田五十鈴?どこがえいがなあんな、オバア!」と言う、年代的に至極当り前の反応を示す者もいれば、卒業の時のサイン帳の「土佐高に入って良かったこと」と言う質問に「美馬に出逢って五十鈴十種を覚えたこと」と答えてくれたT君の様な貴種もいた。
五十鈴十種というのは山田先生の代表作を十本集めた当り役集で、私は毎日休み時間や放課後に「香華、たぬき、淀どの日記、千羽鶴、菊枕、女坂、女紋、しぐれ茶屋おりく、三味線お千代、狐狸狐狸ばなし」と呪文の様に唱えて布教していたのである。

その甲斐あって見事に留年、と言うより土佐高始まって以来の、高三をダブるという未曾有の快挙を成し遂げる事になる。しかも、更に前代未聞の、卒業していないのに卒業アルバムに載るという、超法規的措置の対象となった。
そして翌春、これは全くひばりのお陰で辛くも卒業し、二冊のアルバムに顔写真を恥ずかしげも無く晒し、清張が小説のトリックに使いそうな時間差攻撃のネタを残して「学生」の時代は終わる。

卒業一年後、山田先生のお側近くに行きたい、毎日の様に芝居が観たいという一心で上京。しかし何故か「役者になりたい」「弟子になりたい」と言う心には終にならず、毎日毎日芝居を観て回った。

山田先生にしても杉村先生にしても、あるいは大成駒(歌右衛門)にしても、自分とは五十以上も年が離れており、早晩別れが来る事は必定であり、「尽くす時間が無い」という醒めた諦めが、強く私の中にあったのである。
それと同時に、五代続いた美馬旅館を自分の代で絶やすという選択も、私には有り得ぬ事であった。
厳しい芸界で、才能無く埋もれ木流れ木となって浮沈しようより、真っ当に、旅の人々の足休めの宿の火を灯し続ける事を選んで、東京を引き上げて来た。

それから十年、旅館は出奔、呉服屋をしながら山田先生の許へ通い詰めた。高校一年で始めて上京してから先生が病に倒れて舞台から去るまで十六年間、「霊界様と人間さま」一作を除き、東京、大阪、京都、名古屋と全出演作を観に駆けつけた。

十年前に倒れられてから間もなく、自分の結婚もあり、仕事も忙しくなって来た事も手伝って、私の中で山田先生は生活の中心ではなく、ほろ苦い青春の思い出となりつつあった。
学生時代三万近くもして買えずに歯ぎしりした映画のビデオも、CSや廉価なDVDでたやすく手に入る様になり、それを録画したり買い集めたりする事に追われ、段々手段が目的になって、それをじっくり観て楽しむという本来の形を失い、「積ん観る」状態となった。

そこへ、この度の訃報である。私は自分の青春に終わりを告げる為、迷いなく青山斎場へ馳せ参じた。通夜の晩はタイミングを外して死に顔を見ることは出来なかったが、半分怖くもあったので「これでいい」と思った。
ところが告別式の朝、四十年以上に亘って先生の身の回りの世話をし続けて来たK子さんが「顔見た?」と聞く。「いえ」と答えると「見て上げて」と言う。
晩年には文化勲章綬章のパーティや皇居茶会行きの着物など数枚お納めはしたが、あくまで女優とファンの関係であり、許されるかどうかは別にして、病室は見舞うまいと心に決めていたので、まったく十年ぶりの再会である。

私は恐る恐る棺に近づいた。すると、訃報を聞いた瞬間も至って冷静だったのが嘘の様に、全身がわなわなと震え、胸に熱いものが込み上げて、棺の前に立った時には涙が一杯に溢れ、あらゆる計算や己の立場もろもろが、ぐちゃぐちゃになった。
そっと目を開けると、涙のむこうに、見覚えのあるあの顔が、ふぁーっと浮かんで見えた。

私は、「綺麗」と心の底で叫んだ。一回り小さくなってはいるが、昔と変わらぬ色白のきめ細かい肌にほんのりと死化粧が施され、その表情はまるで天女の様である。
間違いなく日本の歴史上、九十五歳の仏様でこんな美しい人はかつてあるまい。そう思った。孤高の人生の果てに辿り着いた、実に安らいだ温顔であった。

人生に一つの区切りを着ける為、東京まで出掛けて行った私は、それがとんでもない「思慮無き分別」である事を知った。

それは「終わり」でなく「新たな始まり」であったのだ。
小学生の分際で「粋な女」という概念に強く魅かれ、その体現する役々の扮装によって「着物美」という絶対的な教義を学び、更に三味線と言う眩惑の音がそこに加わる事によって、私はもう「山田五十鈴になりたい」という同化意識と、「山田五十鈴を理解し、評価する人間としての自分を押し広げていきたい」という二律背反の世界に生きていた。

ほとんど宇宙の悪戯である。しかしそこを通り越して、現世で食う道を、私も選んだ。
私が今日、田舎者の分をもわきまえず、梨園の奥方をも顧客として東京で展示会を開いたりする厚かましさも、「やると決めたら誰が何と言おうとやる」と言う一念突破の強引さも、全ては高校生で山田先生の楽屋を訪ねた「あの日」に始まる。

高一で書いたファンレター一本で、誰の紹介も無く天下の大女優の楽屋へ乗り込むなんぞは、我ながらそら恐ろしい向こう見ずであり、怖いもの知らずである。

しかし人間には時に「常識外れ」や「身の程知らず」をやってこそ初めて開ける道というものがある。そして他人がどう言おうと、自分が「正しい」「美しい」「本物だ」と思うものに対して絶対にブレない、と言う事も、私が山田五十鈴によって実践し得た果実である。

それを頑迷、独善と見る人もあろうが、そういう「宝」を持っていれば、少なくとも「自分一人」は救う事が出来る。私はそういう宝を、山田先生、杉村先生、大成駒、ひばりと数々持つ事が出来た。僥倖という他はない。
辛い事があっても、いま自分が「たまたま居るに過ぎない」学校なり職場なりの中で、いたたまれなくとも、「他に世界はいくらもある」という事さえ知っていれば、最悪の選択はせずに済む。

それはつまり、生存競争における一つの武器である。
親は、今からの親は、注意深くこの事を思っていなければならない。

いつもながら話は逸れた。
十年と言うブランクは、私にとっては私の内なる山田五十鈴を見つめ直す為の冷却期間であったのだろう。旅立たれてみて、その大きさ、類なさ、深遠さをあらためて感じ、崇敬の念は愈々深くなった。
このままで終わって良い訳はない。未だ終わっていなかった青春の総括として、私にはやらねばならぬ事がある。それをやり遂げるまでは、私は死んでも死に切れない。
その思いは、沸々と、マグマの様に沸き立っている。

その答えはいずれお目にかける。

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