わたしの勘三郎

旧臘中に何とかケリを付けようと、書いては消し、拾いては捨てて藪の中に迷い込み、とうとう年越しとなった。今日で丸一ヶ月である。

それだけ、「中村屋の死」は私の中でも簡単には整理の付かない痛恨事であった。

追悼の嵐の中で、何を書いて良いものか、また書くべきか、悩んだ揚句、私の内なる勘三郎を、全て吐き出す事に決めた。
何も偉そうに語ろうと言うのではない。書いているうちに私は私自身が、十八世勘三郎という役者をどうとらえていたかという事に、おのれでシロクロをつけざるを得なくなったのである。

異論反論もあろう。それも一向に構わぬ。長たらしい口舌にお付き合い下さる奇特の人あらば、謹んで謝意を申し述べるのみである。

私は決して、勘三郎を一途に追い掛ける熱狂的な中村屋ファンではなかった。もちろん「大好きな役者」ではあったが、大成駒によって歌舞伎の世界に誘われた私にとって、当時の中村屋は「若手のホープ」ではあっても「崇拝」の対象ではなく、さりとて同世代の気安さをもって付き合える相手でもなかった。しかし、ある種の微妙な心の通じ方を頼りに二十年弱の間、楽屋へ出入りした。
その折々で話した事、聞いた事は片鱗も忘れていぬ。全てを詳らかには出来ないが、今となっては私の心の宝である。

私が中村屋に初めて間近く接したのは、まだ歌右衛門在世中の、梅玉・福助襲名興行の折であった。
当時国立劇場でアルバイトをしていた私は、旧知の成駒屋のお弟子から声を掛けてもらい、襲名の一ヶ月間、歌舞伎座の楽屋の手伝いをさせてもらっていた。そこへ毎日中村屋が「戻駕」の禿の扮装(なり)で、せかせかと小走りにやって来る。茶色の、薄手の革のスリッパを脱いで「おはようございます」と高砂屋に挨拶する間にスリッパを揃えるのが私の役目である。何日目かに、ちょっと他の用とかぶって一寸待たせて揃えた時、中村屋が「ありがとありがと」と労いの言葉を掛けてくれ、目が合った。

万人が語る「いっぺんで虜になる」あの眼である。

私も好感を持ったが、何せその一座には歌右衛門、梅幸がいて二人に夢中、若い中村屋に「ゾッコン」になりはせず「感じのいい人だな」程度の事である。

次の出逢いは私が東京から戻ったばかりの二十代前半であった。かねて親交のあった岸田今日子さんに、中村屋の出演する「こんぴら歌舞伎」に誘われたのが、きちんと紹介された初めであった。
その時、今日子さんから「後で美馬くんも一緒に食事を」と言われていたのだが、連絡の行き違いから私はその宴席に入り損ね、翌日楽屋を訪ねた。
中村屋は「昨日は悪い事したね、ごめんね」とあの人懐こい口調で言い、すでに今日子さんから大成駒贔屓の芝居好き、と言う事は内聞有ったと見え「大向こう掛けてくれるんだったらね、花道でキマって、龕灯(がんどう=江戸のスポットライト)がパッと当たるとこがあるから、そこで掛けてよ」と注文をくれた。ご指名を受け、いい気で声を掛けた。

それから少しく空白があった。

歌右衛門が舞台を去るのと相前後して、私は高麗屋一家に目を掛けてもらう様になり、他の役者の楽屋へウロチョロ出入りする事は自然と憚られ、また中村屋が私の思うのとはちょっと違う方向へ走り出すにつれ、会っても言葉に詰まりそうな気がして、何となく訪れる機会が減った。

しかしたまに楽屋の廊下で擦れ違ったりすると、例のあの調子で「おっ!元気?」「たまには僕の部屋も寄ってよ」と声を掛けてくれた。

その内、次第に私も歌舞伎界に縁が広がり、一介の高校生から、吹けば飛ぶような「呉服屋の旦那」になった頃、その日の芝居があんまり良かったので久しぶりに楽屋を訪ねると、実に嬉しそうに「よおっ!久しぶり」と歓待してくれ、それからは又、足繁く通う様になった。

七、八年前、私が御園座の地下の画廊で大成駒の富士山の絵に遭遇し、祈祷師の様な怪しい風体の主人に値踏みすると「この人ね、六代目だから六十万!」と吹っ掛けられ、それに対抗し得る巧い切り返しが思い付かなかったので言い値で買った、と言う話をした時は、これまでに無く喜び、丁度そこへ挨拶に来た義弟福助をつかまえ、

「栄ちゃん栄ちゃん!この人ね、昔から歌右衛門の小父さんのファンで高知からいつも芝居観に来ててね、まあそりゃいいや、そいでもって杉村さんのファンで山田五十鈴さんのファンで、兎に角古い芝居が好きで、まあそれもいいや、昨日御園座の画廊で小父さんの絵見つけて欲しくなって、そしたらそこのオヤジがこの人六代目だから六十万!つってふざけた事ぬかしやがったんだって、でもいい返しが思い付かなかったから言い値で買っちゃったんだってよ!凄いよねえ」

と一気にまくし立てた。

よほど、若い私が自分の親世代の役者を崇拝している事が嬉しく、また惚れ込んだが最後、金の事も何も見境が無くなってしまう一種の「酔狂」を見てとって、自分と同じものを感じてくれたのであろう。
中村屋はしばらくの間この話を部屋に来る人にしたらしく、あくる日大成駒のお弟子から電話が掛かって来て言うのに、

「あんた中村屋が喜んで言ってたわよ」

「何て?」

「あのさ、誰だっけ、あの昔から来てる小父さんのファンの高知の」

「美馬くんですか?」

「そうそう!美馬くん。彼がさ、かくかくしかじかでさ」と一部始終を物語り「 凄いよねえ、小父さんのファンは。吹っ掛けられても言い値で買っちゃうんだから」と言った後、

「ところであの人何屋?」

長いこと楽屋を訪ねてはいても、初めに会った時の「歌右衛門ファンの若い人」というインプットのまま、こちらも改めて名刺など出して挨拶した事がなかったので、向こうは私が「何屋」か知らなかったのである。
それでも、そんな事は何の問題でもなく話は通じていた。

私は、一連の新しい試みに付いて中村屋と喋った事は殆ど無い。彼が私に話してくれたのは、梅幸や二代目鴈治郎の事である。
私が歌右衛門贔屓である事は百も承知で、歌右衛門でも父・先代でもなく、この二人を崇拝おくあたわざるが如くに言うた。
つまりそれはこの二優が中村屋にとって最も近い過去において目標とすべき俳優だったからである。
判官を初めとする二枚目の当り役を数々伝授された梅幸を師と仰いだのは当然だが、梅幸には無い喜劇性を持ち、老けも良かった鴈治郎を「二枚目が出来て、つっころばしが出来て、婆が出来て、おまけに(寺子屋の)千代みたいな役が良いってんだから凄い役者だぜ、まったく」と褒めちぎるのを聞いた時は、新鮮でもあり「この人の本体は義太夫狂言第一の古典尊重、古風敬慕にある」と知れて嬉しかった。
その言葉の裏には間違いなく「俺も年取ったらあんな役者になりたい」というニュアンスが籠っていた。

この、「寺子屋の千代」という所がミソである。真女形の役であり、夫松王丸に従い我が子を若君の身代わりに差し出す、哀しい母の役。その千代という役の一つの理想として、歌右衛門でも梅幸でもなく、鴈治郎を挙げた。

ここに十八世勘三郎という人の歌舞伎観、芝居に対する嗜好が如実に現れている。

「女よりも女らしい」などと言う女形でなしに、どう見ても男だが、そのウデで観客の眼前に「女の哀しみ」というものを濃密に提示する「藝」というものを中村屋は信じていたのである。

だからこそ、私がそれに大いに賛同し、話が合うと「ね?分かるでしょ?」「でもこの頃そういう事が分かるお客さんがいないからねえ」と嘆いた。

またある時、玉三郎と組んだ六段目の勘平が素晴らしかったので部屋を訪ね「ここ最近の親方の芝居(当時新機軸真っ盛り)で一番良かったと思います」と伝えると「アハハハ」と照れながら満足げに「俺もそう思う」と笑った事がある。

中村屋は何も新しい客の方ばかりを向いていたのではない。彼は様々な試みをし、歌舞伎に新しい風を入れようとしたが、それは彼の芸の歩みにおける車の両輪の片方であって、心は常に大きな振り子の間を揺れていたのである。(昨夜、全く同じ苦悩を当代樂吉左衛門がテレビで語っていた)

批判に対して過剰反応し、古くからの見巧者を否定する様な発言も多々あった。
しかし本心では「研辰」を見て熱狂する新しい客が、いずれ自分の判官や勘平を見て、スタンディングオーベーションなどでは無く、家に帰って茶漬の一杯もかっ込み、ひと風呂浴びて寛いでなお、ジワーッと腹の底から湧いてくる、静かで深い感動を知って欲しいと願っていたことは疑いもない。

最初の病を得てから亡くなるまで何度も会う機会はあったが、本調子になったらいくらでも話す機会はあると油断して、聞きたい事の十分の一も聞けず、取り返しのつかぬ事となった。
最後の数公演では遠慮して楽屋へ寄らないと、後で件の成駒屋のお弟子を通じ「美馬くんどう思ったか聞いて」と必ず伝言が来た。

やりたい役も山ほどあったろう。本人から直接「やりたいんだよ」と聞かされた助六は、想像するだに名品であったに違いない。体格の立派な、鷹揚第一の現成田屋式とは別趣の、九代目團十郎と六代目菊五郎のミックスされた様な、小兵ながらもはち切れんばかりの力を内に秘めた、カンの強い江戸の駄々っ子。新しい歌舞伎座の大きな目玉となったと思う。

由良之助も、六十になったら必ず手掛けた筈である。高麗屋、播磨屋、松嶋屋、成田屋らの先達に対してどういう「俺なり」を見せたか。想像は尽きない。

そして、何と言っても女形に、やり残したもの、練り上げず仕舞いの役が数々ある。
世の人に、「もう一つの女形」のあり様を見せる為に、この人は生きていなければならなかったのである。

梅幸の当り役は勿論、鴈治郎の藝系を継ぐ老女、三代目時蔵のあのワクワクする芝居っ気を再現してくれたに違いない玉手御前(中村屋が女形の拵えをすると実に時播磨に良く似ている。実の伯父だから不思議は無いが)、そして父のやり残した「太夫さん」はじめ花柳章太郎の役々にも、さぞ素晴らしい成果を得たに違いない。

昨年二月に久々に播磨屋とがっぷり四つに組んだ「鈴ケ森」は、私を震えさせた。
「法界坊」であんな安っぽい楽屋オチを連発して私をがっくりさせた人が、この芝居ではいとも軽やかに、そしてかっきりと楷書の藝を見せる。
芝居の、せりふの、動きの角々が、全て官能的であった。
あれが、「大歌舞伎」である。

いくらいい役者でも、格下の相手とばかり組んでいたら、藝のふくらみは無くなってしまう。 これから年にひと月でも良い、この二人の顔合わせが観られるかも知れないと思ったら嬉しくて仕方がなかったし、そうであるべきであった。

そしてその先、七十代で、十五代目羽左衛門以来となる、永遠の前髪ぶりをみせてこそ、この人は本当の名優として歴史に名を残したのだと、繰り言とは知りつつ悔やまずにはおれぬのである。

ワイドショーで言っている様な「古い慣習を破って新しい事に挑戦した所が凄い」などと言う事だけでは、断じて無い。

「華岡青洲の妻」で、姉久里子演じる小陸が、杉村春子演じる母於継に向って「お母はん!そういう事とは違いますよ!」と食ってかかる場面がある。(歴代の小陸の中で、この場面で私を泣かせたのは久里子一人である)

まさしく、そういう事とは違うのだ。

新しい試みが悪い、と言うのではない。「研辰」の初演時、私も感動して泣いたし、コクーンの「夏祭」には歌舞伎を見た事のない親戚、友人に強くすすめて観に行かせた。

しかし、「研辰」再演の折、意外なほど静かな客席の反応に、私自身驚き、その理由を量りかねていた。その時、劇評家如月青子女史にその話をすると「それは歌舞伎役者の芸を必要としない芝居だから」と一言のもとに看破され、私は唸った。

間違っても、野田秀樹の演出、才能を否定、非難しているのではない。
むしろあの芝居は野田によって「どんなジャンルの俳優がやっても成立する」名作となった。
がしかし、「歌舞伎役者しか出来ない芝居」ではないのである。

三つ四つから仕込まれた日本舞踊を土台とする動き、邦楽で鍛えた発声を絶対必要条件としない芝居を演じる時の歌舞伎役者と、それ無しには成立し得ない「忠臣蔵」や「菅原」を演じる彼らとの間に「凄さ」の違いが出るのは至極当然の事である。まして勘三郎の様な類い稀なる天稟を持った者の場合には。それが再演、再再演となればなるほど(演る側、観る側両方の)「反復蓄積」の重要性は増す。

歌舞伎の客は、ストーリーより演出より、「役者の藝」を観に劇場へ行くのだから。

くどい様だが、私は野田版「研辰」を否定してはいない。それどころか、勘三郎の追善には勘九郎の「研辰」を必ずや掛けて欲しいと願っている。

これは秘すべき事ながら、私的駄文ゆえお許しを願って書かせてもらう。

中村屋が旅立った日、一家が贔屓にした京都のあるお茶屋では折悪しく周年の祝いの真っ最中であった。「必ず顔を出す」と言う約束も、深い哀しみに流れてしまったその三日後の深夜、一人の客がその茶屋の戸を敲いた。

「こんな遅掛けに誰やろ?」と思いつつ女将が出ると、そこには赤い薔薇の花束を抱えた青年が佇んでいた。

「お祝いに来られなくてゴメンね」と彼は言った。
「何言うてんの、こんな大変な時に…」女将は涙を堪えきれず、後は言葉にならなかった。

自分の親が亡くなり、目の前が真っ暗な時に他人の祝いに心付く。これぞまさに親父譲りの中村屋スピリッツである。義理堅く、人情にあつく、ましてそれを己の危急存亡の時に成せる度量と侠気。
この話を聞いて、私がこれまで以上に勘九郎ファンになった事は言う間でもない。
そして、彼ならこの心の穴を埋めてくれると。

最後に、誰も書かない事だから不詳私が記しておくが、中村屋のあの「花のこぼれる様な」な魅力の秘密の泉は、その歯並びにあった。
彼が「いたずらっぽく」笑う時、必ず下の歯をずらして斜め前に出す。その瞬間にたまらない愛くるしさがほころびる。
この隠し技を持っていたのは、私の知る限り山田五十鈴と十八世勘三郎だけである。
極論すれば「あれを観るだけでも金を払う値打があるのだ」と言っても良い。

そしてもう一つ、あの「発音」である。

「なにぬねの」と「ざじずぜぞ」の音に、中村屋独特の味があった。

これは、口の中で舌をどう使うかという意識無しには出来ぬものであり、義太夫を学んだ歌舞伎俳優でも、誰もが物に出来る事ではない。

そして、あの台詞の切り様である。

枚挙に暇がないが、名古屋山三で申そうなら「まことは不破の伴左衛門(ばうざえもん)、つつむとすれ、え、ど、物腰格好(かうっこう)」

であり、

権八で言うなら「その方ども、を、は、」である。(五代目半四郎の型とは言え、江戸時代の録音を聞く事は出来ないし、現在権八を演る他の役者の誰とも違うから、やはりあれは勘三郎型である)

エロキューションと言う演劇語を体感させてくれた、数少ないひとであった。

色気、狂気、邪淫、耽溺、 姦淫、乱痴気、癇癖、遊蕩、歯噛み、ツッパリ、コンチキショー。
恩愛、義侠、憐憫、惻隠、慮り、デレデレ、人好き、ツーと言えばカー、泣き上戸。

「冗談じゃないよまったく!」というのはこっちの台詞である。

しかし、何を言おうにも、中村屋は此の世の舞台からは飛びしさった。
今はただ、遺された勘九郎と七之助が、父の背を追い掛け、己の中なる勘三郎を私たちに見せてくれる事を祈るのみである。

いくつもの悲顔、破顔を思い浮かべつつ、私の人生の半分、否これからの半分をも豊かにしてくれた勘三郎に、この場を借りて衷心より感謝の言葉を捧げる。

「ありがとう、また逢う日まで、中村屋」

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