私のいきつけ14 そばしん(閉店)

今日は医大に用があって岡豊方面へ行くので、久々に笠ノ川の「喜太八(喜の本字は七が三つ)」」へ寄ろうと思ったら、折悪しく定休日であった。
すっかり頭が「蕎麦モード」になっていたので他の物を食う気にはならず、あれこれ考えた末、いきつけの一つ、秦泉寺「そばしん」へ向かう。

南国から高速へ乗って窪川まで帰るか、須崎へ寄って橋本の「鍋焼きラーメン」か、と一瞬迷ったのを振り切って、下道をクネクネ。やっと辿り着いた腹ペコの私の目の前に現れたのは、一見して人けの無い、荒涼とした店の姿であった。暖簾も、ショーケースの中の蝋細工も、何にも無い。

「やまっちゅう」

悪夢のような眩暈の中、貼り紙も無い自動ドアから店内を覗き込むと、そこは「もぬけの殻」であった。

旧臘、突如として閉店、私を嘆かせた近所のもう一軒のいきつけそば屋「乃なか」に続いてのダブルパンチであり、ここ数年で言えば「笑庵」「白紙庵」を合わせ、四軒目のそば屋閉店。まことに残念としか言いようがない。

ここは、私がまだ店を持たず、車でお客様の御宅を回っていた頃、最も通った店の一軒である。ことに、創業以来のお得意先であるお茶の先生のお宅を訪問した帰りには、程近いこの店へ必ず寄るのが、私の愉しみでもあり、定番コースであった。

まこと、食欲の減退する夏場、この店の「もりそば」は私にとって、掛け替えのない「清涼食」であり、これを上越すものは「稲ぎく」の冷麺以外に無い。
何と言ってもここの「もり」の身上はまずその「冷たさ」にあった。夏場の生ぬるい水道水で濯いだだけの蕎麦はご免だ。たとえ蕎麦が製麺所の二番、三番麺であっても、せめて冷たければその「涼」を何よりの馳走と思って食えるのである。
ここのは蕎麦を氷水で締めているのはもちろん、そば猪口まで冷やしてある。これが私の好むところであった。暑いなかを外商して回る者と、冷房の効いた中でデスクワークしている者では、自ずと食い物に求めるものが違って来る。

そして二つ目に、この店の他には無い特徴、それはつなぎに「ふのり」を使う事であった。この「ふのり」が独特の色と風味、食感を醸し出していたのである。この「ふのり」の磯の薫りゆえ、余計に冷えている方が美味い。あれを生ぬるで出されたら「磯の薫り」が「磯臭さ」になっていただろう。
宿酔いで食の進まぬ昼下がり、この店の「もりそば」なら喉を通った。

他にも美点は幾つもある。ここは高知では数少ない「本ワサビ」を付けて出し、また大根おろしも大サービスのてんこ盛りであった。頼まずとも氷水と熱い煎茶の両方が出た。おしぼりも。
これらは正当の江戸前そば屋では邪道とされるサービスである。しかし高知の山手の住宅街で、この至れり尽くせりは、私には心地の良いものであった。

そしてまだこの店のお母さんが健在の頃、高校生くらいのアルバイト嬢がいつも二人いて、その娘たちの行儀の良い事、明るい笑顔で朗らかに接客する様も、忘れてはならないこの店のご馳走の一つであった。よほどお母さんのお仕込みが良かったのであろう。

メニューも豊富であったが、何せ「もりそば」一辺倒で他の品書には滅多に手を付けなかったので多くは語れない。いずれ書く為に撮っておいた写真は、珍しく頼んだ「松坂そば」とそれに追加した「もりそばミニ」の二葉が残るのみである。




この「松坂そば」はここで昔から食べたい食べたいと思いながら「他のもの食べるなら、もりをお代わり」のパターンで、ずっと食べ逃していたもの。牛肉の甘味とスダチの酸味がマッチして「たまにはいいな」と思わせた一品である。
他にも、そば屋には珍しい珍品で食指をそそられながら最後まで食べられなかった「天茶」、死んだ大叔父の大好物だった「にしんそば」など、心の残る品は多い。

何を言うても「後の祭り」

しかし、若い時はいざ知らず、もう自分の中の「新店開拓欲」が減退し「現在有るいきつけで一生暮らしたい」と思っている今の私にとって、行きつけの閉店、廃業は身にこたえる。

それは、その店のメシを数え切れないほど食って自分の生命を維持して来た者にとって、肉体の一部をもぎ取られた様なものであり、友人知人との別れにも等しい、痛恨事なのである。

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