偏愛的女優論 第七章


前触れも無く、たまたま見たNHKドラマ「かすていら」
これは、さだまさしの自伝小説を映像化したものである。

幼少期、テレビドラマによって芸能の道への扉を開かれ、耽溺し、次第にその出演者たちと現実の交流を持ちながらその多くを喪い、昨今では数多放映され続けるテレビドラマの、多くを見ない、又は見られずに日々を送っている私にとって、連続物を見おおせるのは中々至難な事である。

そんな中で、私にチャンネルを合わさせたのは、その配役表に、名女優佐々木すみ江の名を見た故であった。

我が家では、山田五十鈴、杉村春子両大女優は「先生」、他の女優はお付き合いが有ろうが無かろうが、好意的な人は全て「さん」付けで呼ぶ。

私の贔屓女優で言えば高峰三枝子、毛利菊枝、原泉、は高峰さん、毛利さん、原さんであり、加藤治子、岸田今日子は治子さんに今日子さんである。

そのデンで我が家では「すみ江さん」と呼ぶ。

この人は私の小さい頃から「庶民的な脇役」の代表的名バイプレーヤーであった。

私の記憶の中で最も古くすみ江さんをインプットしたのはNHKドラマ人間模様「夢千代日記」のたばこや旅館の女中、お兼さん役である。

この作には、主演の吉永小百合をはじめ、秋吉久美子、樹木希林、そして久々に世の中に姿を見せた往年の大スター夏川静枝ら、錚々たる名女優が出演した。

その中で、毎回は出ない脇筋として、ヒロイン夢千代の初恋のひとの実家であり又、芸者としての「お出先」であるという、まことにデリケートな疼きと日々の経済行為の微妙に絡まった「場」であるたばこや旅館。その女将であり初恋のひとの母を加藤治子が演じている。

そこまで固めておいて、もう女中頭などは誰がやってもいいだろう、と思う輩は、早坂ドラマを見るに値しないし、日本の役者の底の深さを知らないのである。

ここで、すみ江さんが出るのと出ないのではまさに雲泥の差がある。

「女中役をナメてもらっちゃ困ります」

仕える家が一流なら女中も一流、三流なら三流の様に演じなくてはならない。

四国のド田舎であるうちの旅館でさえ、むかしは「上女中さん」というのがいたものである。

山陰の、裏悲しい温泉宿に長の奉公をしている女である。女将に伝言一つしても、その物腰に「色々あった」女の哀しみが滲み出なければならない。そうでなければ芝居にならない。

そういう難しい問題を、すみ江さんはいとも易々クリアする。

己を殺しつつ生かす演技術の最たるものがそこにはあった。

最近の、「目立つ芝居で名脇役」の類は皆、すみ江さんの爪の垢を煎じて飲まねばなるまい。
何しろ二十年このかた、頭にこびりついて離れぬという時点で、勝負は決まっているのである。

その原点から長きに亘り、ずっとすみ江さんを見続けて来た。

その藝境が、著しい高みに達したのは、およそここ十五年の事だろう。

現在八十五歳。してみると矢張り、七十過ぎにして融通無碍の境地に達したと思われる。

大河ドラマ「徳川慶喜」「篤姫」の好演と安定感もさることながら、「花より男子」のあの、いまどきの出演者の中にあって光り輝く存在感、柔軟性、とりもなおさず「役」に求められた事への咀嚼力と、それを具現化出来る演技力。国宝ものである。

そして、こんにちの「かすていら」

初回から、すみ江さんがドラマの臍を締める。せめて、せめて後半まで生きててよ!と願ったが、脚本の都合上、二回目で世を去る。

その、臨終近い場面である。

私は「リアリズム」というものを、久々に見た。

近代の新劇人たちが、必死で追い求めて来た金科玉条、不磨の大典、「リアリズム」。

その極北が、ここにはある。

「虫の息」という言葉があるが、それを、映画、演劇、テレビドラマいずれの世界でも、今日ほどリアルに感じた事は、不肖私には無い。

「病める老婆」というものを、絵空事ではなく、しかもポジティブに描いた点で、この作とこの演技は特筆に値する、と私は思う。

この作においてすみ江さんが創り上げたお婆役には、「死期を悟る」ことの出来た時代の幸福、また「足るを知り、感謝する」人の幸福があふれ返っている。

ことに、演技上の相手役である名子役、否、若き名優、大八木凱斗との、演技者としての無言の通じ合いが、私の様な者には堪らなく響いて来て、とうてい涙を抑えることは出来かねるのである。

一日でも元気で、現場に立って欲しいと思う。

演技とは何か?

この壮大な疑問に、佐々木すみ江は一つの答えを明確に出しているのである。

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