嫌うという事

私は小さい頃から、物事に対する好悪の強い人間であった。

故に、他人の事もよく「嫌い!」と断じ、何かと軋轢を生んだ。

商売をする様になって多少はその癖が止んだかというと、実はほとんど変わってはいない。

嫌いなものは嫌いである。

しかし、ここ十年あまり、そういう事を公言するのが窮屈な世の中になって来た。

「人はそれぞれ色々ある」式の、実に大人ぶった理解を示す「フリ」がもてはやされ、その実、相手の事など微塵も認めていないにもかかわらず「尊重しているボーズ」を取ると言う、まことに体裁屋の、事なかれの、クソ面白くもない面々が世を席巻しているのである。

では果たして「嫌い」という感情は、そんなに否定されるべきものであろうか?
嫌い、というのは本来、己の価値観、正義感、公平さ、などに基づき、それらに反する人間、行いについて拒絶感を持つということである。

私に言わせれば、それのあるのが当たり前の、血の通った人間であり、誰が何をしても「人それぞれ」などと嘯いている輩は、結局はその人間の事を全く無視しているのであり、嫌うよりも遥かにむごい。

嫌う事にはパワーがいる。友を失い、世を狭める事も大いにあろう。

しかし、嫌う、という事はその現象に対する反発であると同時に、そうではない姿への強い「律し」を喚起するものである。

これを押し付け、独善、と見る向きもあるだろう。

しかし、嫌う事と、その相手を攻撃し、滅ぼす事とは全く違うのである。

人の事ではない、人間は自分自身の為に「嫌い」という感情を捨ててはならぬ。

私が言っているのではない。

九十五歳、堀文子の、これは遺言である。

歳をとって、全部が許せるようになる、などというフレーズは、魂を腐らせ、生きた屍となる為の、思考停止のまやかしである。

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