わたしのベル 第一章

「山田さん、あの方だけは女優の中でも別誂えです」

劇団くるみ座の創立者であり、溝口健二の「雨月物語」「西鶴一代女」において強烈な演技を残した名女優・毛利菊江は、当時高校生だった私にそう言った。
この言葉以上に、女優山田五十鈴の偉大さを言い当てた言葉を私は知らない。
この一語に尽きると言ってもいい。

並の者が言ったのではない。日本映画の名匠巨匠たちにその無類の演技を買われて数々の名作に出演し、並み居る大スター、大女優を相手に演技の火花を散らして来た毛利の言葉だからこそ、重く、深く響いた。

「綺麗」でも「巧い」でもなく、ただただ「モノが違う」と。

山田と毛利は市川崑監督「ぼんち」で母子役を演じている。雛飾りの前で二人が盃を巡らすシーンは、女系が支配する船場の商店の奥向きを描いて、あまりにも濃密である。

私が毛利からこの言葉を聞いたのは、高校一年の冬休み、京都南座で上演された山田の代表作「香華」を観に行った折だった。当時はまだ深夜バスなど無く、大阪までフェリーで行き、そこからまず京都、真如堂前町のバス停まで乗り継ぎ、毛利さん宅を訪問した。事前にお手紙を差し上げていたので「ようこそいらっしゃい」と老女優はあたたかく迎えてくれた。
二時間ほどの対面だったが他に話した事はほとんど覚えていない。「今夜は山田五十鈴さんの香華というお芝居を観ます」と言った私に、ややあって深く頷いてから、遠くを見つめる様に語った冒頭の一言が、今日まで脳裏に焼きついて離れない。

私は、大好きな名女優が大好きな大女優を褒めるのを聞いて嬉しかったし、誇らしかった。

私が山田五十鈴の魅力に取り憑かれたのは「必殺シリーズ」である。
小学校低学年の時には既に大人の番組を見ていた私は、当時子供に人気のあった「西遊記」を見ても、マチャアキの孫悟空ではなく高峰三枝子のお釈迦さまに魅かれた。
年相応にドリフや欽ちゃんに笑い転げながら、片方では東芝日曜劇場をはじめとする中高年向けのドラマを熱心に見入った。そこで杉村春子、沢村貞子、山岡久乃といった女優たちがご贔屓になり、まわりの大人たちに「この子は年増の女優ばっかり好きで、一体どういう子やろ?」「変わった子やねえ」と訝しがられ始めていた。
その決定打が、山田五十鈴である。

後年「必殺からくり人 富獄百景殺し旅」の再放送を見た時、これが私の山田五十鈴初体験だった事を思い出した。あの浮世絵の様な顔で、広重の浮世絵を炙る絵面の面白さ、妖艶さ。瞬時にして「これ子供の時に見たことある!」と分かった。

小学生の間は、あまりテレビドラマに出ない山田を見る唯一の機会が「仕事人」であった。おりくさんが旅に出るとガックリした。実際その間は舞台に出ているのだが。

中学へ入ると、山田の昔の映画を見たくてたまらないが、今の様に安価なビデオ、DVDはなく、田舎の事で古い日本映画を上演する様な映画館も無い。もちろん東京まで舞台を観に行く事は夢のまた夢である。仕方がないので山田の出演した映画や舞台の原作本を読む。そうまでして、山田五十鈴に少しでもつながりたい。

これが「恋」でなくてなんであろう?

そしてとうとう、中学三年の時、ファンレターを書く。

忘れもしない学校の近くの潮江図書館。下宿でも学校でもなく、この場所を選んだのは当時高価で手の届かなかったキネマ旬報の日本映画俳優名鑑がそこにあったからである。今では考えられない事だが、その本には俳優の自宅住所、おまけに電話番号まで書いてあった。
便箋十三枚に及ぶ長文の恋文。
数日はドキドキしながら暮らした。

一週間ほどたったある日、学校から帰ると下宿に一枚の葉書が届いていた。
マネージャーの代筆ではあったが「ご丁寧なお手紙をありがとうございます。本人もとっくり読んでいたようです。東京へ来る事があったら楽屋へいらして下さい。お芝居の切符もお取りしますよ」とあった。

この時、私の運命は決まったのである。

爾後、県内一の進学校において、勉学は放擲し、山田五十鈴病まっしぐらの日々を送る事になる。

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