偏愛的女優論 第八章


長いブランクを経て、いよいよ原泉である。

「西の毛利に東の原」

もしかしたら、これが私の素人批評としての最大の名文句かも知れない。
この事は(岸田)今日子さんには散々言った。笑っていた。

およそ現代の映画ファンが「日本の老婆」という分野を渉猟せんと思えば、この二人の屍を越えなくてはならない。

しかしこれは、日を追うごとに真理となって行く。「アンチエイジング」などという白痴的流行の中で、お婆さんがお婆さんたるべき、姿はもはや壊滅した。

あの頃はまだ、片や山田五十鈴の様な、本当のアンチエイジングが存在する一方で、原泉の如き本当のお婆さんが存在していたのである。

原泉に出くわそうとしたらまず「犬神家の一族」か「タンポポ」であるが、この二作の役どころの隔たりには大きなものがある。

富本憲吉の女人評を借りれば、リアルシュールとシュールリアルとでも言ったら良いか?

ともかく「お婆さんは怖くて意地の悪いもの」「そして何かギリギリ尖っているもの」という、言わば今日の「優しい可愛いお婆ちゃん」などという偶像とは正反対の絶対黄金律を、この人から学んだのである。

私はこの人に、高校生の時に会った。正しくは手紙を出してその自宅を尋ねて行った。

山田五十鈴の舞台を観にいく前の時間、早朝にバスを乗り継いで行った世田谷の家の残像は、私の頭の片隅に衝撃的に残っている。

戦前からの新劇史にともに名を連ねながら、私が原より先に訪い、その風貌、貫禄、佇まいにおいてむしろブルジョア寄りであった西の毛利の陋屋に比して、いつも痩せこけた老女を演じていた原の邸宅が、あまりに立派だったからである。

たしかに、お手伝いの女性もいた。

ゆったりとした間取りの、さぞや筋の通った建築家の手になるに違いない邸宅の真ん中に、数年前に夫を亡くした老女優は、吸入器(当時はあれが加湿器替りであったか!)をかけながら、実に淡々と、自らのほとんど白くなった髪をかき上げ、私に対してある種の威厳をもって語った。

私は、歴史に残るべき女の髪をかきあげるのを見たのは、この時と、大阪で武原はんの楽屋を訪ねた時、その二度きりである。
しかしそこには、ともに明治の女の面構えがあった。

「髪を結い上げているところなぞ他人に見せるものではない」というのが当時の私の「明治の女」に対する認識であったから、実に驚いた。

田舎から訪ねて来た高校生の私が、人間の数に入っていなかったかどうか?それは計り知れないが、兎も角もその様であった。

世間話に、最近作である「タンポポ」の伊丹十三夫人であるところの「宮本(信子)さんもすぐ近所なんですけれどね」と言うので「そうですか」と答えると、彼女は「教えませんけどね」と、まるで芝居の間の様に言った。誰にでも会いたがる高校生と思われたやも知れぬがお生憎様、当時の私にとって宮本信子は全く興味の外だったのである。

そうして原は、今なら私が根掘り葉掘り尋ねるであろう味のある花入を、袋戸棚から女中に取り出させ、箱から取り出して私に見せるともなく見せながら、夫の事には一切触れなかった。

屋敷に対して十分すぎるほどの庭には、芝生以外、目立った花木はなく、ただひとつ、黄色い木瓜の一木が、彼女の身じくろいの一助となる薬缶の湯気と、著しく呼応していた。

私が「むらぎも」を読んで作家・中野重治の信奉者となるには、この後十余り年を費やさねばならないのである。

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