浩三の死

今年中に書いておかねばならぬ事が一つだけある。

我が身のまわりのお祭り騒ぎの事ではない。一人の奇人の最期についてである。

田辺浩三。

高知県の自主上映サークルとジャズファンにとってあまりにも有名な、しかし一般人からは遠い存在であったこの男と、私は一回り以上の年の差をこえて、小学生の頃から腐れ縁を結んだ。

浩三は私の実家のほぼ真裏にあった一心堂時計店の一人息子で、私の父母が浩三も参加していた「窪川JAZZろう会」のサポーターの様な立場であった事から、中央から一流ジャズ奏者を招いてのコンサートの打ち上げは常に美馬旅館であったし、娯楽と言うものの殆ど皆無に近い田舎町で、時計屋と一つ入り口でレコード屋を営んでいた浩三と親しく話すようになるのは必然であった。

浩三は、いわゆる「立て板に水」の如く喋る性質で、常に己の中なる訴えを吐き出し、わめき散らすのを日常とし、地元でも立派な「変人」の烙印を押されていた。

しかし私は、この男と何故かウマがあった。と言うより、中高と進学して行く過程で、この男よりほか、溝口や成瀬、小津や黒澤について話をする相手はいなかったのである。

毎回、観客わずか数人で行われるマイナーな日本映画の上映会。それも、普通なら毎回参加の常連がいて、上演後にディープな議論を重ねながら飲み会、という座があってしかるべきところ、浩三はいつもひとり粛々と機材を片付け、ある時にはその足で一時間半かかる市内へ返却に走った。

世の人々が最も恐れる「孤独」というものが、この男にとってはまるで無縁のもののようであった。

途中から「この男は何でこんな、一円にもならないことに血道を上げるのか?」という疑問が湧いて来たが、当人は決して金に対して全くの無欲な訳ではない。上映費カンパという縛りの中で、カンパ箱に入った金の員数にとやこう言うのを聞いて「それなら金額を決めて取れ!」と怒鳴ったこともある。

しかし、それが五年、十年、二十年と続いてゆくに従い、私の中の浩三観も変わる。

「嫁の来手は到底あるまい」と思われた変人ぶりを裏切って結婚し、一女を授かったが離婚。その後の家庭内紛争、それに続く裁判闘争は聞いているだけで疲労を覚える修羅場だったが、本人は最後まで不倒の精神で自主上映を続けた。

私が子供のころ、一心堂へ行く度「美馬くんも映画が好きかよ?浩三は困ったもんじゃ、一文にもならん映画ばっかりやって」と、息子の活動を全く理解を出来ず、更に原発反対運動家たちと接近するのを終生苦々しく思っていた父親との確執は凄まじいものであった。

葬儀の際に配られた冊子の中にも「父親から散弾銃で狙われたが、警察は見て見ぬふりで一切動かなかった」という一節によってそのあまりに映画的な「父と子」の姿が紹介されていたが、浩三がその父親の亡くなった日に遺体を自分の車に載せ、仏の顔に布も被せずに店の前に長時間放置しているのを、私はこの目で見ているのである。

私は浩三の父親に対する憎しみを思いつつ「あんたナンボ言うたち、早う仏さんを布団へ運んじゃらんかよ!」と怒鳴った。

浩三はその死体を尻目に、レコードを買いに来た客の相手をしていたが、私はそこで、まざまざと復讐の刑を見たのである。

最後はキリスト教に帰依し、葬儀も教会で執り行われたが、私は浩三の様な人間が「宗教で救われる」などという事は金輪際無いと思っている。

現に祭祀を司った牧師が「田辺さんにはさんざん振り回された」「こんな人はもう出入りして欲しくないと何度も思った」と、挨拶で述べた。私は「何と正直な宗教者か」と、いっそホッとした、清々しい気持ちになった。

やがて牧師が「しかし田辺さんの様な存在こそ、神の子である」と言った時、私は本当にその通りだと思ったし、浩三を理解する(赦す)か否かによって、その人間のレベル、種類が推し量られるのだ、と改めて思った。

この教会は反原発運動の人たちの拠点にもなっている様で、おそらくその関係者と教会の信者によって、葬儀の参列者の人数は浩三の生きて来たマイナー人生に引き比べ、驚くほど多かった。

ところで、私は浩三の死を「話の前置き」というものを一切省いて爆弾のごとく投げ込んでくるのが常の、伯母から知らされた。
曰く「あのね、浩三が死んだ」

私は動揺せず「どういて?」と聞く。伯母は続ける。

「溝へ転けて死んじょったと!」

「いかにも浩三らしい」と私は思った。

犯罪を犯した訳でも何でもないが「畳の上で往生する」などと言うのは如何にも浩三らしくないのである。

私は急を聞いて、さぞかし寂しい葬儀になるだろうと勝手に思い込み、どんな事があっても参列しようと勇んで臨んだが、拍子抜けするほど大勢の人が別れに集まり、あまつさえ地元新聞に郷土の文化人として死亡記事が出た。

自分の事がマスコミに取り上げられる度、

「勇ちゃん!俺ってそんなに凄いの?」

と臆面もなく聞いていた浩三が、どんなにか喜んでいるだろうと思うと、嬉しくもあり又、意外でもあった。

その記事を書いた地元紙記者の弔辞で、映画的な、あまりに映画的な浩三のエピソードが紹介され、参列者はみな、哭いた。私は何故か、アンゲロプロスの「シテール島への船出」を思い出した。

二十代の浩三から六十代の浩三まで、出逢った時によって受けた衝撃も、不快感も、滑稽さも、それぞれ違うだろう。

しかし私は、電燈代の節約だと言って店の電気を営業中に消し、向かいの街頭で本を読む浩三、「月の砂漠」を口角泡を飛ばし全身を痙攣させながら吠え唄う浩三、高知市内から窪川へ帰る道々、わざと国道を通らず県道村道を縫ってカーチェイスをし、終いに窪川小学校の校庭を突っ切る際に車の横っ腹をガリガリガリッ!と擦ってもなおハイテンションで絶頂に達している浩三を十代に見て「これは本当の狂気ではない」と見ていた。

彼は自分の狂気じみた言動を喜んでくれる人間に対して、その期待を裏切らぬ様に「つとめてオカシク見せる」サービス精神に富んでいた。

その死に方さえ、従前の演技過剰を貫いたように思えてならない。

田舎町のレコード店主が、天下の今井正や大島渚を高知へ引っ張って来、岸惠子や吉永小百合に上映会へのコメント葉書をもらう。その畏れを知らなさ、行動力、自己尊大。禍々しき存在と見られながらも、少数の理解者をテコに渦に巻き込む求心力。

私はふと我に返り、己の人生に於いて浩三が自分に与えた影響の大きさに、数十年の時を経て初めて気づき、ただ愕然としているのである。

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