100回記念私のいきつけ窪川篇

私の飲食店偏愛の原点、それはもちろん地元窪川にある。
古くから要害の地として知られ、戦後は国鉄の終着駅として繁華な時代もあったが、昨今はご他聞に洩れず人口減に喘ぐ田舎町である。
が、なかなかどうして、「どっこい生きている」名店が犇めいている。
その中から、代々変わらぬ老舗、経営者が変わっても名店の看板を守っている伝説の店、そして窪川名店街の新星の三軒を紹介する。

私にとっての「元祖いきつけ」。それは実家から歩いて五十歩ほどのところにある。「異色茶房 淳」。


別の看板には「風流茶房」の名も。
創業者川上淳二郎翁の一字から取った店名は、今更ながら出色である。
私は保育園の時から日曜日のモーニングに来ているから、最早三十五年以上の付き合いである。一軒の店に通いつめる、という行動様式の根本になっている店であり、いきつけとは何か?という学問の論拠にはまず、この店の存在がある。

小学生の頃、まだ珈琲が飲めない時分、紅茶(日東紅茶のティーバック!)を飲んでいた昔から、青春時代、盆正月に集まる竹馬の友との再開の場としての聖地として、そして楽しい事ばかりではない実事(じつごと)の人生に入ってからのひと呼吸の場として。実に「我が人生に淳あり」である。


店構えからして、異色の名に恥じぬ魁偉さを醸し出している。店を覆う蔦は、淳のおんちゃんとうちのお爺が、その昔金上野から取って来たと聞く。夏など店内にまで蔓延り、クーラーで白くなった葉が異様を見せる。

店の入口が二つあるところからしてすでに、初めて訪れる者を惑わせ、この店が並大抵の喫茶店でない事を予感させる。


店内はさらに混沌としており、至る所にポスターやカレンダーの切り抜きが幾重にもミルフィーユされている。

そして仏や鬼の面がずらり並んで我々客を俾睨している。私は子供の頃これが心底怖かった。中でもアフリカ人のような厚い唇の面は時折夢にまで出た。

レジの下には画面部分に布を貼ったテレビが置かれ、「カラ(空)テレビ」と書かれている。
そして喫茶を始める前の稼業の名残であるレトロなアクセサリーが、アンティークなガラス棚の中に五十年の時を経て並んでいる。
そうかと思えば、地元はおろか全国の民具が天井からぶら下がっている。

子供の頃からこんな店にしょっちゅう来ているのだから、迷宮好きにならないわけがない。


今は洒落た切り絵なんぞが掛かっている。

ここの名物は人によって異なろうが、私の定番はアメリカンとミックスサンドである。
大正元年生まれだった創業者前マスターが、「水で埋めてアメリカン?まったく笑っちゃいますね」という名文句を貼り付けていたように、ここのはブレンドを割るのではなく、正真正銘の浅煎りの豆である。


これがサンドウィッチと良く合う。第一ブレンドではサンドを食べ切るのには少しく量が足りないのである。


卵とハム、レタスにキュウリの絶対的な四重奏が何百回食べても飽きさせない。

五月ともなれば自然とアメリカンからアイスコーヒーに定番が代わる。この器が秀逸。


銅製のカップがキリキリと中身を冷やし、ガラス器の様に最後の方が薄まって水っぽく情けない味になるのを防ぐ。元から深煎りの、トロミさえ感じさせるレイコーが、サイコーの状態で飲み干せる。
この他にアイスウィンナや、コーヒーゼリー、何処にも無い独特の飲み心地のレモンジュースなど、絶品揃いである。珈琲豆は全て自家焙煎、豆のみの販売もしており、電話注文で宅配も可能である。

淳のおんちゃんこと先代は、兎に角書く事が好きだった。そして独特の文字を書いた。


いまだに健在のメニューはもちろん、トイレットペーパーの金具にさえ、わざわざ「ペーパー切り」と書いて貼ってある。


尾籠な話だが、私は地元に帰った時、自分の家ではあまり大の用を足さない。ほとんど淳でする。


これは体内リズムというのか、条件反射というのか、淳のアメリカンを飲むと催すのである。そして寛げる。得難い店である。



二軒目は、窪川唯一の、否高知県内でもそうそうは無い、行列の出来る店、「駒鳥」。
私は東京であろうが何処であろうが、行列してまで物を食わない主義だが、この店だけは別、唯一の例外である。
メニューは中華そば普通(並盛)、中華そば大、中華そば特大の三つのみ。潔いにも程がある。


じゃこ出汁ベースのあっさり味にシナチクならぬ筍の醤油煮、ねぎ、チャーシューのトッピング。遠く高知市からも車で訪れる客が多い伝説の店。

ここは長く病気がちだったおばちゃんが、休み休み営業していた。初めは二日三日、やがて一週間十日となり、終いには何ヵ月も休んで数日開く、という様なイレギュラーな営業形態であった。
休みがちになるにつれ、久しぶりにじゃこの匂いが漂い出すと、我々近所の中毒者は鋭敏な鼻でそれを嗅ぎ付け、忍び寄って行くと果たして仕込みをしている。
昼近くになると町内の駒鳥中毒患者の中で「今日はやりゆうで!」という連絡が物凄い勢いで伝播し始める。
薄味の食べたい時は開店間もなく、濃いのが食べたければ閉店間近を狙って行く。
私は大体仕舞いがけの客で、二時半ごろ行くと「準備中」の看板が掛かっている。しかしそこは蛇の道で、構わず引戸を開けておばちゃんの娘さんに「ある?」と聞くと、厨房の中のおばちゃんに「勇作君」と告げるとオッケーが出る。単品を売り物にする名店という物は必ず常連用の予備を残しているものである。これは銀座の空也でも同じ事。
五感の全てを奮い立たせて乗り込み、まずは大を硬麺やや辛で、そして頃合いを見計らって普通(並盛)の辛口をおかわりする。特大は麺が延びてしまうのと、味が一定では途中で飽きてしまうので私はこの二段構えで行くのである。(現在は普通味が濃いので初め普通味、お代わりをやや辛にする)。
柱時計の音が食う者に一期一会の真剣さを要求する。
汁一滴残さず食べおおせた時の、世にも不思議な満足感、幸福感。まさに中毒であろう。
この先代の最晩年、長く休んで久々に再開した時、驚くべき変容があった。この店のスープは濁っているのが特徴なのだが、それがどうした事か、真っ透明に澄んでいるではないか。「どういた事?」と尋ねる私に「やっぱり分かる?前みたいなおじゃこが入らんなって困っちゅうがよ」とおばちゃん。
その時期、駒鳥以外にもこんな話を多々聞いた。不漁か何か原因は不明だが、いい出汁じゃこが急に流通しなくなったのである。

そして最期まで前の味に戻り切らないまま、おばちゃんは暖簾を下ろした。ペースメーカーを入れながら、よく頑張ったと思う。

窪川町民にとって、欠く事の出来ぬ町民食、殊に酒飲み連中にとっては、前夜の深酒を中和し、昼からの仕事、そして早や飲まないかん今夜の酒の為の唯一無二の妙薬であった駒鳥のラーメン。辰巳芳子風に言えば「生きていく為の手立てとしての食」を失う事は痛恨の極みであった。

そこに救世主が現れた。隣町の役場職員であったこの店の常連客が、安定した公務員の身分を捨て、一から商売の道に飛び込む決意をし、新たに暖簾を上げた。

初めは試行錯誤の連続で味が定まらなかったが、三年の時を経て次第に安定し、今日(5/3)のスープを一口飲んだ時、思わず私は声を上げた。「おばちゃんの味になっちゅう!」

初めの頃は、何の甘味か分からないが、兎に角要らぬ甘味が有ったのが全く払拭され、正しく出汁じゃこの旨味がダイレクトに伝わって来る。三十年以上食べ続けて来たこの舌が、脳が、食い意地が「これよ、これ!」と叫んでいる。

これまでで最高の出来であった。出汁の旨味は先代の晩年を越えたと言っても過言ではなく、むしろ、ちょっと旨味が有り過ぎなくらいである。もちろんスープはちゃんと濁っている。
先代の時は二軒の製麺所から麺を仕入れており、三十才で早世した旧友ヒデ(この店の代表的ヘビーユーザーの一人)などは午後一時半頃から使われる控えの麺(町内のTさんというおばちゃんが細々作っていた。この人は高知の上海軒の親戚にあたる)の方が好きで、もう一方の麺は匂いが気になると言っていた。この男はラーメンの表面が真っ赤になるくらい一味を振りかけて食べるほどの激辛好きで、では味音痴かと言えばそれがそんな単純なものでもなく、鋭い味覚、臭覚の持ち主で、常連でも誰まわり気がつかない麺の違いに気づいていた。その匂いの正体は「鹹水(かんすい)」であった。鹹水とは麺にコシとツヤを与える為に用いるアルカリ性の水で、製麺所によって混ぜる量が異なり、最近では全く用いない製麺所もある。(包丁人味平参照)
この匂いというのが、人によって物凄く鼻につく。気にならない人には全く気にならない。ヒデは数少ない前者であった。
当代使用の麺はほとんど鹹水臭はしない。

私の親世代は、おばちゃんより前の、おんちゃんの時が美味かったわよ、という。これは初めて食べた時のインプットだから致し方ない。が、当代は私たちをほぼ納得させるに至った。

名ばかり継いで全く別物になってしまう事が多い中、伝説の名店の継承としては希有な成功例である。
今後もたゆまぬ精進を望むのみ。

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