古人曰く
私は焼き肉屋では必ず生セン生レバーは食べるが、ユッケは滅多に食べない。これは純粋に好みの問題であって、安全性とは何の関係もない。
で、今回のユッケ事件である。
無論直接的加害者は焼肉屋と食肉卸屋であり、弁解の余地は無い。が、この際良く考えてもらいたい。
私は食品問題が起こる度に言い続けて来た。人の作った物を食べる人間は、それを選ぶ時点ですでに軽からざる「自己責任」を負っている、と。
そもそも自分で食糧を生産出来ない、あるいは料理をするのが面倒だ、はたまた美味い物が食いたい、等の理由によって人は他人の作った作物なり料理なりを口に入れる。
その、「何かを口に入れる」という事に関して、あまりにも無防備、無自覚、無知の結果がこれである。
ここには、安かろうが何だろうが、「金を払って手に入れた物だから、安全でない筈はない」という至極幼稚な手前勝手がある。
マスコミこぞって成り上がりの社長を吊し上げているが、そういう人間を造り上げたのは結句消費者の無知である。
どんな批判をされても言うが、本当に安全で美味い物を食おうと思えば、私たちはそれなりの対価を払わなければならない。
勘違いしてもらっては困る。庶民は美味い物を食おうなどと思うな、というのとは正反対の事を私は言っているのである。
庶民には庶民の味と言う物がある。
「生肉」などと言う物は言わば高級食材であって、しかも「ユッケ」ともなればレバーやセンマイとは訳が違う。
それがラーメンより安い値で食える、という時点でおかしいのであって、価格破壊の幻想がついに破綻したのである。
私は常に、「そんなに安くして、終いにはお金払ってお客に品物あげるつもり?」と憎まれ口を叩いて来たが、この会社は結果的にそうなる。
ここで重要なのは、「消費者」という金看板の怪しさである。非常時ともなれば、いくら金を持っていてもクソの役にも立たぬ。
山田五十鈴は戦時中一晩分の薪を分けてもらうのに、当時でも最高の着物一式を要求され、手放している。
あまりにも平和な消費社会が続いた為、人は「お金を払って品物を分けていただく」という感覚がゼロになってしまっているのである。
むろん、客を神様にし過ぎてしまったのは、一人一人の顔も覚える気もないくせに表皮だけのサービス過剰と安値を武器に成長した平成の企業(起業)家たちである。こんな輩にこそ柏島「きみちゃん」の精神を叩き込まなくてはならない。
しかし、何事も最後は自分の責任。他人のせいにするのは最終的には自分が愚かであるという事を駄目押しする事でしかない。
豊田商法の昔から、オレオレ詐欺まで、何べん痛い目に逢っても懲りないのは何故か?
その都度被害者(と私は思わないが)ばかり庇って、その愚かさを指弾しないマスコミにも万死に価する責任があるが、これもまた、最後には本人の不心得と言うのが一番当たっているだろう。
何故と言って、自分の息子が他人をはねた、孕ませたと言って来られて、慌てて示談金を振り込む様な人間は、所詮ロクな親ではない。
かの田中角栄の母フメは、息子が逮捕された後、「アニ(角栄のこと)も悪いことしたんなら、仕置きを受けねばなんねえ」と、我が子の罰を受け入れた。
自分の子を不正で(裏の手口を使って)助けたい、というのも欲なら、有り得ない安値で物を手に入れ、己が得をしようという正根もまた同じこと。
人は人のした事に、真っ当な対価を払わなければならない。
美味い物を食わしてもらったら、勘定以上の心を付けて褒めてやらなければならないのだ。
自分が食べている物をもういっぺん良く見、考えてみるといい。自分らの労働、賃金に鑑みて、誰が一体そんな安い賃金で働くか。
植民地を一時持った時の名残か知らぬが、食材を作った人間、料理した人間が褒美を与えられず、自分だけが美味しい目をして喜ぶなんぞという事は、あまりにも前近代的であり、得手勝手なことである。
何百ぺんでも言うが、昔の人の言った事くらい間違いの無いものはない。
「うまい話にゃ裏がある」
「安物買いの銭失い」
という言葉が、今日ほど身に沁みる事はないのである。
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