私のかかりつけ ニノ院
一ノ院に続いて、生涯忘れる事の出来ない「名医」の思い出。
十三年前の秋、私は地元の同級生の結婚式に招かれ、松山の地を訪れた。昼の式から夜の披露宴までの長丁場だったので、前日から乗り込み、私の他は女ばかりだと言うのに、久々に集合した嬉しさもあって「飲めや唄えや」の大宴会。恐るべし「窪川ガールズ」ではあった。
翌朝、宿で目が覚めると、なんたる事か、首がバキバキに固まって、少しでも動かそうものなら劇痛が走る。
「やまった」
ただの客ならどうと言う事はない。私には「余興」の大役が待っているのである。
この日の新婦は自動車整備工場の娘。曲はもちろん、「車屋さん」である。
ひばりの曲は、首が回らないと歌えない。
私はこの「首の回し方」を高校生の時分に師匠から習った。
「よう見ちょきよ」と言って師匠は首をグルグル回した。
この事を、二十年近く経ってのち、高麗屋が幼少の砌、祖父初代吉右衛門に抱かれて出た舞台での記憶に「祖父の顎がガクガク外れて首が回っていた」と言うのを聞いて膝を打った。
物事の要諦は一つである。「自由であるということ」
その首が回らないのでは話にならない。
私は痛む首を庇いながらようようの思いで布団から這い出し、誰にも告げず一人宿を出た。
アンテナの向くまま、タラタラっと坂を下り、路面電車の駅の前まで来た時、何かが匂った。
ふと見上げると私の目に「重松鍼灸院」という看板が飛び込んで来た。
白い壁の三階建ての前に立つ。
「ここは間違いない」
どこから来るのか分からぬ確信が私を突き動かす。
扉を開けると、地元の老人と思しき患者でかなり繁盛している。
受付には初老の、おそらく院長の奥様であろう、髪に少し白いものが目立ち始めた年頃ではあるが、実に美しい風情で、弱った人を迎えるに相応しい物静かな応対は、実に惚れぼれする。
中へ通されると、かの夫人に似つかわしき、逞しく眼光鋭き先生が容体を聞き、私が「昨夜寝違えまして」と言うやいなや有無を言わせずキッパリと、「寝違いは胃腸からだから」と言い切った。
そして、電流を流すシートの上に腹這いにされ、背中と腰に数カ所の鍼を打たれ、さらにその針の先端にも端末を接続されて電気を流されること数分。
「はい、首回してみて」
恐る恐る動かしてみる。
首は、グルグル回った。
さっきまで、一センチも動かせなかったのに。
久々の超絶技巧である。
この先生、首回りには一本も鍼は打ってはいない。
よくマッサージでも、肩がこっているからと言って、肩ばっかり揉んでもダメ、という程度の事は言う。しかしそれは、近辺から徐々にほぐしていく、という種類のものであって、根本的に違うのである。
一ノ院の氏原先生でさえ、私の寝違いを治すのに二度かかった。
この重松先生の後に掛かった高知のさる先生は名医の呼び声高い先生であったが、手の甲に鍼を打ち、治療中はずいずいと首に響いたが、残念ながら何日も治らなかった。
それが一発である。
その後、寝違いで何度も鍼にかかったが、重松先生の様に腹にのみ打つ先生もなければ、一発で治した医者もいない。
ただ現在ネットで「寝違い」を検索すると「原因は胃腸の疲れから」と書いてあるのがいくつか出て来る。中にはそのメカニズムも詳しく説いてあるのが有って納得である。
その夜、私は無事に余興をつとめて松山勢に対する高知勢の達引を見せ、さらに二次会三次会と飲み明かし、唄い明かした。
爾来しばらくの間、私はあの超絶技巧が受けたい為に「早く寝違えないかしらん?」と思って暮らしたほどである。
数年前、家族旅行で久々に松山を訪れた折、家内が風邪を引いたか咳が止まらず、子供を連れて動物園へ行く予定を他の家族親類に任せ、ここぞとばかりに重松鍼灸院を再訪した。
しかし、そこには先生の姿は無かった。
まさかあのお歳で亡くなる筈はないと思って尋ねると、訳あって別の場所(たしか何とか言う島だと聞いた)で診療していると言う。
ただし、かの奥方は健在で、今ここはご子息が継いでいるとの事であった。
折角なので家内は治療してもらったが、私の体験した超絶技巧を味あわせる事は叶わなかった。
ちょっとほろ苦い、幕切れではある。
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