泣き藝について
いま、「Woman」の満島ひかりの、田中裕子とのやりとりの、感極まって涙声になり、裏返り、ヴァイオリンの様な音を奏でるのを聞いて、つい四日前に聞いた菊之助を思い出した。
21世紀前半の歌舞伎を引っ張って行く若手花形勢揃いの、と言ってもそこには(猿之助を除く)という但し書きが要るが、何はともあれ実現可能な中の、オールスターキャストで世に問うた九月花形歌舞伎の昼の部「新薄雪物語」。
その中で、ヴェテラン揃いの一座でも至難とされる「合腹の場」における、染五郎の今までに無いハラの強さ、厚さ、松緑の今後の老け役への期待感を持たせるガラ、これに加えて私を唸らせたのが菊之助のウデである。
その真骨頂は有名な「三人笑い」の場で最高潮に達する。
これまで、歌右衛門、芝翫、玉三郎と観て来て、実に前代未聞の声音。
あの長丁場、一つの演技センテンスの長さで言えば、おそらく歌舞伎の名作の中でも最長の一くさりの演じ様として、私の知る限り空前であった。
間とイキ、声の高さ、絞り様、完璧であったと言わざるを得ない。
それをウケる染五郎の兵衛がまた、苦痛を堪えての笑いの中に技巧を凝らしながら、この役に賭ける捨て身の覚悟、そこから自然と出て来る刃物の様な峻厳さを見せて、さらに反響する。
「泣き笑い」という、永遠不変の感情表現を、この好取組は存分に見せてくれた。
年がら年じゅう文句を言いながら芝居を観ているのは、こういう瞬間に遭う為だと言っても良い。
ところで「泣き藝」と言えば杉村先生である。
前にも書いた事だが「女の一生」という芝居は「杉村春子を如何に泣かせるか」の一点に特化した芝居と言っても良い。
序幕「もう二度と帰って来るんじゃないよって!」
二幕(櫛を真っ二つにへし折って、声にならぬ号泣)
三幕「間違いと知ったら、自分で間違いで無いようにしなくちゃ!」
四幕「あたしは、自分で自分がだんだん嫌になってくるんですよ!」
五幕「あなた、あなた、あなたーっ!」
六幕「踏りましょうか?」
実に六幕中五幕の幕切れが泣きである。
「さめざめと泣く」なんて言葉が仏語や独語、ましてや米語にあるかどうか、語学に疎い私は知らない。
が、各国の映画等を観ていて、「泣く」事が一つの藝になっている例はあまり無い様に思われる。
むろん、日本人の男が日本人の女の「泣くところ」を見て、皆がみな「シオラシイ」と感じるなどと言うのではない。
杉村春子の「女の一生」には「をんな」というもののしぶとさ、逞しさが否応無く描かれている。拾われ、戀し、破れ、闘い、逆上せ上がり、孤独となり、また喪い、そしてやはり生きて行く。その波乱の中の「泣き」である。
稚拙な「嘘泣き」と見せるか「本泣き」かの瀬戸際。
薄皮一枚で人間を「抉り取る」演技。
その藝の系譜を、図らずも菊之助に見た。
父・菊五郎とも、祖父・梅幸とも全く違う地平に、この人は立っている。
これまでアンチ菊之助であった私を、間違いなく脱帽させた一昼であった。
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