わたしのベル 第二章
昭和六十一年、十五歳になった私は、高校一年のゴールデンウィーク、ついに憧れの山田五十鈴に、「ナマ」の山田五十鈴に逢う為に、東京行きの飛行機の切符を握りしめていた。
その時の心の高鳴り、胸のときめきは、三十年近く経った今でもはっきりと思い出せる。
何時間も早く劇場の前に到着し、余分な銭は一文もないので、近くの帝国ホテルを仰ぎ見、恐る恐る館内をウロウロして、時間を潰した。この時から、私にとって帝国は大東京の象徴であり、その後山田がマンションを引き払って何十年ぶりに常宿とした(その以前、現在のインペリアルタワーの場所に帝国ホテルアパートメントがあり、山田はそこの住人であった)事もあって、今なお別格の聖地である。
開演15分前に楽屋に来るように言われていたので、楽屋口で来意を告げ、通されたエレベーター前のお稲荷さんの下で待つ。「もうすぐ降りて来ますから」とマネージャーから言われ、もう心臓はバクバク、地に足が着いていない。
ついに「チーン」と旧式のエレベーターの音がして「ガチャガチャッ」と扉が開き、青い色紋付に前割れの鬘、男舞いの姿で山田五十鈴が現れた。
「いらっしゃい」
映画やテレビで散々聞き馴染んだ、あの独特の声である。
「写真撮りましょう」
身震いしながら、横に並んでツーショットを撮ってもらう。
「ごゆっくりね」
そう言い遺して、ゲランの残り香を漂わしながら、大女優は舞台袖へ消えた。
この間一、二分か?兎に角、「一瞬」の出来事であった。しかしこの「一瞬」は、田舎の高校生の人生を狂わせるのに十分であった。
それこそ「籠釣瓶」の次郎左衛門である。「宿へ帰るが」チョーン!「嫌になった〜」である。今でも「籠釣瓶」を観ると、この時の事を思い出して、身につまされる。
あの空気は何?風圧。貫禄。華やかさ。
この後、幾多のスター、名優に会ったが、この時以上に「大スターのオーラ」というものを肌で感じた事はない。後日、毛利菊江から聞く言葉の通り「別誂え」の人そのもの。
やがて幕が開き、私は人生初の山田五十鈴主演舞台、東京宝塚劇場五月特別公演「三味線お千代」を観た。
平岩弓枝原作の小説「風子」は先に読んでいた。手練の脚本で、山田の芸風を活かす舞台に仕上がっており、助演の草笛光子、曽我廼家鶴蝶らの好演もあって、私はいっぺんで生の舞台の魅力に取り憑かれた。
そして、帰りは楽屋口で出待ち、見送りをして別れた。
その時の上京では、森繁最後の「屋根の上のヴィオリン弾き」、青山劇場ではアントニオ猪木、倍賞美津子夫妻の愛娘が主演したミュージカル「アニー」も観た(大歌舞伎に足を踏み入れるのはこの翌年である)が、何と言っても山田である。
帰りの飛行機の中では「これでしばらく山田先生に会えない」と思うと悲しくて悲しくて仕方がない。飛行機に乗ると、たった一時間半で高知に着いてしまう。「帰りたくない」「もっと東京にいて何回でも芝居を観たい」という後ろ髪引かれる思いでいながら、あっという間に現実の世界に引き戻されてしまう容赦の無さ、逆に言えばたったそれだけの時間で飛んで行ける距離なのに、経済や学生の身分がそれを許さない口惜しさ。飛行機の速さが恨めしくさえ思えた。
芝居によく「翅が欲しい」という台詞が出て来るが、この翅、こういう場合、タダでないとしようがない。いつの時代も、恋と金とは敵である。
連休が明け、学校が始まっても、わたしの頭の中は山田五十鈴一色であった。
授業中も「今ごろ先生何してるかな」「この時間なら三幕の開いたとこ。あの台詞を喋ってるあたりか」と、まったく心ここにあらずである。
テストの答案用紙にさえ、もうこれ以上考えても分かりっこない、となると裏面に山田五十鈴の似顔絵と、本物そっくりのサインを書いて提出した。
そんなふざけた生徒の答案用紙に、表は赤点でも、裏に三重丸をつけて下さった先生がいらっしゃった。
そういう校風だったから、私はこの後「五十鈴病」がどんどん重くなり、その上「杉村春子病」と「中村歌右衛門病」という合併症を併発し、ついには「美空ひばり病」という末期症状を体するに及び、瓦解的速やかに学業から離れ行ったのにもかかわらず、どうにかこうにか卒業する事が出来たのである。
勉学もロクにしないで、年に何度も東京や大阪へ芝居を観に行く不埒な道楽三昧を、並の進学校なら親に言い聞かせて封じ込めたかも知れぬ。我が土佐高が、そんなガチガチの管理主義の学校であったら、今日の私は存在していないだろう。
しかし、そうはならなかった。
ここから私の校内における「山田五十鈴布教大行進」が始まる。
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