わたしのベル 第五章
山田や杉村、歌右衛門がまだ引退もせず、まさにこれからがこの名優たちの最後を見届ける数年間という時、なぜ私は東京を去る決意をしたか?
これは他でもない。私は彼女らに恋しながらも、自分の人生に対して意外なほど冷静だったのである。
国立劇場の上司であったO課長からは「お前がその気なら、正職員で採用してもらえる様に上へ話をつける」と言われていた。
あの時その話を受けていたら、私は今ごろ国立で制作か演出に携わっていたであろう。
しかし、私はその道を選ばなかった。
このまま劇界に居ても、数年以内に山田、杉村、歌右衛門は第一線を去る。その後で、時代時代の名優はいたとしても、思春期に惚れ抜いた役者たちの様な思い入れをもって「身を尽くし、家を棄てて故郷を捨てて、捧げるほどのわざおぎありや」と寺山修司気取りの諦念に至ったのである。
クラシックの名曲でもそうである様に、その曲を初めて聴いた一枚目のレコードのイメージ、インパクトと言うものは中々塗り替えられるものではない。自分にとっての元祖、定番、基本形。
それが思春期のナーバス、センチメンタルと結び付いた日には、もう一生美化され、崇拝は止むことを知らないのである。
私にとって、バッハの無伴奏が永遠にシゲティのものである様に、モーツァルトのロンドイ短調が永劫にギーゼキングのそれではなくてはならない様に、それは大時代と小現代との狭間で生きたモノ好きの、一つの答えである。
何を言うにも、才能天賦無く内弟子になって側に付き、あとさき見ずに随伴して添い遂げるには、あまりにも生まれて来るのが遅かった。
一方で、私は高知の片田舎の吹けば飛ぶ様な身代ではあるが、曲がりなりにも明治以来続く旅館の六代目、しかも一人息子である。私が継がない為にこれが断絶する、という事は、私が芝居の世界に残って成し得るであろう小さな事に引き比べ、あまりにも重く心にのしかかったのである。
山田との関係がうまく行っていた事も、逆にこれを後押しした。つまり、高校生の時とは違い、
追いかけても 追いかけても 遠い山
(山頭火は、分け入っても 分け入っても 青い山 )
ではなく、もう十分に心通じ、いつでも己の胸に理想の山田五十鈴がいる状態、言わば「山田五十鈴を最高の女神として崇めながらも山田五十鈴から自由な境地」に至ったのである。
そうして、私は高知へ帰った。
どうなったか?
思いもかけない展開が、この後いくつも待っているのである。
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