退き際
今日は二葉百合子引退記念さよならコンサートを追いかけて今治にやって来た。
私は自分の結婚披露宴の余興で「岸壁の母」を唄ったくらいだから、今回のさよならツアーには何としても駆けつけねば、と思っていた。が、最終公演のNHKホールには伝統芸能の夕べと重なって馳せ参じる事が出来ない。そこで、全国縦断ツアーの中から、一番近くの今治を私の゛生"二葉百合子聞き納めの地に選んだ。
店を早退し、車を飛ばして二時間、開演の六時ちょっと前にロビーに入ると、客席の中からカラオケが聞こえる。
ははあ、こりゃ集客の為に開演前にカラオケ大会をやっているのだなと察し、この間にCDを買っておこうとあれこれ選んでいたが、このカラオケが六時過ぎても一向に終わらない。いくら地方の公演とは言え、ずいぶん暢気なものだと不審に思い係に糺すと、何と本チャンは六時半からだと言う。
キングレコードの二葉サイトにもはっきり18:00と書いてあったし、チケットもそうなっている。にも関わらず平然と「初めの三十分はカラオケ大会です」。久々の「あっぽろけ」口があんぐりだ。
素人のカラオケを聞きに高速飛ばして来た訳じゃなし、天下の二葉百合子先生の引退興行でこれはないだろうと思ったが、ここで苦情を言い立てても仕方がないのでコーヒーを飲んで待つ。
六時四十分、やっと本編の幕が開いて御大の出番。
初めに七十七年の芸道を集約した浪曲の一節を唸る。これでもう鳥肌が立ってしまった。微塵の老いも感じさせぬ張りのある声、貫禄。脳内の錆び付いた義理人情感応帯にビンビン響いて一気に涙もろくなってしまう。
どうしてこの人が引退しなきゃならないのか、他に引退した方がいい歌手がいっぱいいるのに、と思わせる健在ぶりである。実際現存の歌手で二葉先生以上の声量と迫力を持った歌手はいないだろう。八十にしては、という但し書きの付かない、正真正銘の若さ、溌剌さである。
だからこそ、声の出るうちに(つまり夢を壊さないうち、もっと言えば他人様の笑いものにならないうち)に引退したい、という芸人魂が一層胸に迫る。
人間誰しも自分に甘く、とうに賞味期限が切れているのに、まだ行けると勘違いするものだ。
だからほとんどの人が身の退き際を誤る。
紅白を舞台に華々しく引退しておいて、またぞろ復帰し、まったくキレの無くなった芸をべんべんと曝し、過去の栄光を自分の手で傷付けてしまった某歌手などは問題外だが、「よしゃあいいのに」と思われている事を知ってか知らずか、スポットライトにしがみついている歌手や役者の何と多い事か。
芸能界だけではない。政治家にも二葉先生の爪の垢を煎じて飲んだら良いのがいる。一国の総理を勤めながら、一度表明した引退宣言を平気で撤回する鳩山や、本会議で居眠っている様子はどうみても恍惚としか思えない羽田などは、最も二葉蕩を処方する必要のある手合いである。
そういう保身、夜郎自大と対極に身を置いてこそ、この平成の世にあっても二葉歌謡は屹立する。
「信無くば立たず」と云うが、歌手であれ政治家であれ、説得力の無い者の歌や言葉が何で人の心を動かせよう。
「百年桜」「一本刀土俵入」と曲が進むにつれ、だんだん目頭が熱くなって来る。今まで生で聞いた事がなかったので、その迫力にただただ圧倒される。
ここまでの説得力で日本人の情感を歌い上げる歌手は、この人が最後だろう、という事は私が歌手のステージからそういうものを体感するのも今日が最後になるかも知れない。そう思うと、無性に切なくなる。
テレビでは毎日、訳の分からない音楽ばかり流れているが、一体日本人の血はどこへ行ってしまったのか?戦後すぐから「浪花節的」と言う不名誉な言い方で、すっかり前近代の遺物扱いを受けて来た浪曲だが、日本人が浪花節を捨てて一体何が残るというのか。
自分たちの流儀の教えを捨てて六十年。新しく出来たお家芸は、コミュニケーション不能に適応障害、親忘れに子虐めである。
私は以前から主張している。小学生に浪曲を聞かせて人情を教え、落語を聴かせて人間の真のたくましさを学ばせるべし。英語なんかやってる場合か!文科省の大たわけ!
国際人たる前に日本人として自国の文化を解しない者が、何で国際舞台で通用するか?
いや、もっと根本的なところで恥を知り、分を知り、恩を知るの「三知」を知らなければ、世界はおろか、自分一人の魂も救われはしない。
この国の衰亡の大本が、こうした事を中核に内包する我が国の文化を蔑ろにして来た事にあるのは明白である。
経済的に衰退するのは「満つれば欠く」と言って当然の事であって、(老人が増えて働き手が減って行くのに経済成長なんて夢物語で国民を欺こうとしている政治家は私に言わせりゃ国賊である)、問題なのは民草自身が金以外の拠って立つべき所を知らぬ根なし草になってしまった事にある。これを復古するには、教育しかあるまい。
本質を見抜く眼を育て、鍛えなければ、日本人は本当の三流民族になってしまう。
話題が逸れた。ラストソングに戻る。
待ちに待ったというより、いつまでもその時が来ないで欲しいと願った大詰めの時が来た。用意周到なスライド上映ですでに涙腺が最大級に拡張された私の耳に届いた「岸壁」は、まさに「白鳥の歌」だった。
四十年唄い込んで来た深みはもちろん、何千回唄っていても手垢の付かぬ楷書の芸の真髄。芯には何ものにも屈しない強さがありながら、押し付けず、心から絞り出す様な調子。
台詞は、子を思う母の慈愛に満ち満ちて、優しく、胸熱く語りかける。
もうたまらん、滂沱。
これ聞いて泣かない人間は人間ではない。
私は結婚式の余興で、かなりオーバーに受け狙いで岸壁を唄っていた自分を恥じ、今後は今宵の二葉先生の歌唱を手本に、大事に真摯に唄って行かなくてはと心に誓った。
松と鶴
揃うもつらし
冬港
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