三婆とチキンライス 上
今日の昼、何を食べようかと思案していて咄嗟に「オムライス!」と思い立ち、行きつけの一軒「なごやま」へ車を向けた。
ここは昔ながらの仕出し系の店であり、今の時季は「蒸し寿司」が名物である。
「でも今日はオムライスだ!」と勇んで車を降り、ショーケースの中の蝋細工を見ながら入口へ進む。
ここで、悩み発生である。
花形・オムライスの横に、地味に、チキンライスの見本。
このチキンライスという食い物の微妙な立ち位置、存在、世間からの扱いというものは、実に私の偏愛のツボである。
告白するなら、私はチキンライスの「隠れファン」である。
今や、オムレツオムライスは勿論のこと、デミソース、果てはクリームソースのオムライスまでが跋扈し、世の人々の人気は圧倒的にオムライスに寄せられるのであり、十年一日、何のヴァリエーションも無くアップグレードしないチキンライスをメニューに載せる店は年々減って来ている。
私とて、ご多聞に漏れぬ卵好きだし、中高の学食で「オムライスのケチャップの広げ方」について教師と論争したほど、オムライスに想いはある。
なるほどオムライスは「チキンライスを薄焼き卵で巻いて更にケチャップをトッピングしたモノ」であるから、オムライスを食えば同時にチキンライスを食べた事になる、とは言える。
好きなチキンライスを食べた上に「巨人、大鵬、玉子焼き」の玉子焼きを一緒に食える。何の文句があるか?と考えるのが普通であろう。
では一体「オムライスから薄焼き卵を剥ぎ取ったモノ」であるチキンライスが、かなり肩身の狭い思いながら細々と、一部老舗ホテルや年季の入った町の食堂や喫茶店で生き延びている理由は何であろう?
単に、卵嫌い、卵アレルギーの人の為か?
オムライスよりしっかり鳥肉を食べたい人の需要か?
まさかグリンピースが目的?
もちろんそれらの理由もあろうが、やはりこれは「ケチャップ味の炒め飯を純粋に味わいたい」「卵は嫌いじゃないけど、ここには要らぬ」というシンプル原理主義派が存在するからに相違ない。
私は決してオムライス否定派ではなく、それどころか一生で食べる回数はチキンより遙かに多いと思うが、同じ店のメニューにオムライスとチキンライスの両方があった場合、どうしてもチキンの贔屓をしたくなるのである。
日頃、オム派の者どもから歯牙にも掛けられず、全く黙殺されているこの存在。
私が注文してやらねば、滅多に食う者はいまい。
そうして「滅多に出ないからメニューから消しちゃおうか?」となったら大変だ。
この灯を消してはならぬ。
「乗って残そう公共交通。食べて残そうチキンライス」
無論、オムライスをメニューに載せている店ならチキンライスの材料はある訳で、もし仮に表から消えてもまず、裏には残る。
オムライスが出来るのにチキンライスが出来ない、なんて店があったら、それこそ噴飯モノであり、私だったら徹底的に何故出来ぬかを納得のいくまで問い詰める。
まあ、そんな事を思いながら、チキンライスと吸い物が運ばれて来た。
否、正しく言えば常にこの店の昼の部のホールを仕切っているオカッパがトレードマークのお姉さんが、まずチキンライスを運んで来る。
このお姉さん、年季、貫禄から言えば完全に仲居頭だが、カシラも何もいつもこの人ひとりである。一人なのに「頭」。でも、女将とは違う。この微妙さがミソである。
この人が、午後2時を一分でも過ぎたらシャッと暖簾を仕舞い、決して遅れ客を入れてはくれない、その「しこなし」が何故か私は好きだ。
この店の入れ難い駐車場へ車を入れるのに難儀して、やっと辿り着いた店先で「シャッ!」とやられた事は一度や二度ではない。
普通なら「ちょっとばあええやん!」と抗議したくなるところだが、この人の体内時計の如く正確に仕舞われる暖簾を前に、私は地団駄を踏みながら、珍しく己を責めるのである。
「この人の間に合わん自分が悪い」
と真から思う。
そうしてやがて、珍しや女将さんが「いつもありがとうございます」と吸い物を運んで来た。
チキンライスに吸い物?と思うだろうが、和食がベースのここんちのチキンライスには、吸い物が合うのである。椀種は海老とワカメ。残念なレベルの物は一つもない。
美味い。少なからず、多からず、絶妙のケチャップ加減。
チキンライス、福神漬、吸い物、お茶、水の五点を規則正しく往還する。
周りは皆、蒸し寿司を食べている。それが余計に愉快である。
そこへ、ドヤドヤと一行が入って来た。
(つづく)